まぶたの裏が明るくなって、そろそろ起きる時間だということはわかっているのに、たゆたう気持ち良さになかなか目を開けることができない。あと五分だけなら、きっと大丈夫。そんな考えが覚醒しきらない頭をかすめたところで、扉がきしむ小さな音。
何かが顔の上に被さるように明るさがさえぎられ、髪にはくすぐったい感覚。それすら二度寝の快楽の前にはあまりに些細なもので、大きな波にさらわれるようにもう一度眠りの中へ戻ろうとしたところで――。
「寝坊だよ、いいかげんに起きなきゃ。ねえラインハルト」
肩を揺さぶられ、半ば強引にラインハルトは朝の光の中へ引き戻された。
ゆっくりとまぶたを上げると、滲んだ人影はすぐによく知る人物のものに変わる。横になったラインハルトの顔を真上からのぞき込むルーカス。
「入るなっていっただろう!」
一緒に暮らしはじめた頃に設定した様々なルールを撤廃した後も、ラインハルトは基本的にルーカスが寝室に入ることを禁止していた。特に入られて困る理由があるわけではないが、二人の秘密基地になったこのアパートメントの中に自分だけの空間をいくらかは残しておきたいという気持ちは否定できない。
それに、前ほど頑なに朝の姿を隠してはいないものの、今も寝起きの姿を見られることには抵抗がある。そんなに濃い方ではないが、無精ひげだって生えているかもしれない。じっと顔をのぞき込まれていたことにいまさらながら気まずさを感じ上掛けで顔を覆おうとしたところで、しかしルーカスが聞き捨てならないことを口にする。
「だって、いつもより三十分も遅れてまだ起きてこないんだもん。ドアだって何度も叩いたんだよ。それとも遅刻したかった?」
「三十分!?」
そういえばさっき頭をよぎった「あと五分」は何度目だったか。サイドテーブルに置いたままの安い腕時計に目をやると、ルーカスの言ったとおり普段の起床時間からはちょうど三十分遅れた時間が表示されている。
「だからさ……」
ルーカスはまだ、許可を得ずに寝室に入った言い訳を続けようとしているが、そんなことは大幅な寝坊に気づいた今となってはどうでもいいことだ。
「うるさい、どけ」
跳ねるようにベッドから起き出すと、進路をふさぐルーカスの体をひじで押しのけてラインハルトは扉に向かった。大急ぎで身支度をしないと仕事に遅刻してしまう。
「……せっかく起こしてあげたのに」
背後から追いかけてくるルーカスの不満そうなつぶやきは、とりあえず聞かなかったことにする。
あれから――ルーカスが出自を告白してから、早いもので一年が経とうとしている。その間オーストリアは再び完全な独立を果たし、中立国としての新しい歴史を歩みはじめた。一方でラインハルトとルーカスの生活に変化はあったとも言えるし、ないとも言える。
脱色をやめたラインハルトの髪はすっかり本来の色に戻った。極端な食事制限をやめたことで体重はいくらか増えたが、心配していたほどの変化はない。鏡を見たときの落ち込む気持ちは決してゼロにはならないものの、ラインハルトは少しずつ新しい自分の姿になじみつつあった。
十六歳になったルーカスは本格的な成長期を迎え、今ではラインハルトとの身長差は頭半分程度しかない。ほっそりとした少年の手足もいつの間にか青年のたくましさを見せるようになったが、生来のものなのか彼の髪色は特段の変化を見せることなく今も金色を保っている。本人としてはラインハルトのように成長とともに髪色が濃くなることを期待しているようだが、往々にして人生というのは思った通りにはいかないものだ。
ルーカスがナチの優生思想を具現化した施設であるレーベンスボルン出身であること、彼に名前を与えたのが悪名高い第三帝国幹部、ハインリヒ・ヒムラーであったこと。それらが明らかになり最初の数ヶ月は同級生にからかわれてけんかになることも多かった。しかし少年たちというのは思った以上に飽きっぽい。冬になる頃には、ルーカスの出生がからかわれることはほとんどなくなったのだという。
もちろん今も陰で「あいつはナチの子だ」と陰口を叩く者もいるようだが、ルーカスはそれを黙殺することを学んだ。もちろん本心では少なからず傷ついているだろうし、ラインハルトが自身の外見を完全に受け入れてはいないのと同様ルーカスだって彼の人生の何もかもを受け入れたわけでもない。だが、ルーカスはルーカスなりに、置かれた環境でなんとか前向きに生き延びるすべを見つけようとしているようだ。
慌てて身支度を終えたラインハルトに、湯気を立てたカップを手にしたルーカスは呑気に聞く。
「コーヒー飲む暇もない?」
「ない」
「夕食は?」
今では学校から帰ったルーカスが二人分の夕食を準備して待っていることが習慣になった。ラインハルトの日常には十六歳の少年に聞かせるような物珍しい話はないから、ほとんどはルーカスの学校での出来事に耳を傾けるばかり。それでも一日のうち決まった時間向かい合って食事をともにすることで、よそよそしいふたりの生活はどこか家族に似た打ち解けたものに変わってきたような気もする。
だが、今日のラインハルトには珍しく仕事の後に予定がある。
「今日はいらない。遅くなるから飯はひとりで済ませてくれ」
「え、どうして?」
「まずい、遅刻する」
驚いたようなルーカスの質問に返事をする時間もない。これ以上家を出るのを遅れたら確実に学校に遅れてしまう。ラインハルトはそのまま部屋を飛び出すと、アパートメントの階段を駆け下りた。