Chapter 3|第37話

 会は三々五々に解散となり、店を出て家に帰るラインハルトは珍しく少し酔っていた。普段から酒を飲むような習慣はない。誰かと酒を酌み交わすような機会もない。滅多に飲まないからこそビールのほんの数杯で酔っ払ってしまうのも特に不思議ではなかった。

 クララは学校を去り夫とともに新しい生活をはじめる。明るく朗らかな彼女だからどこに行っても誰とでも上手くやれるだろう。しかしクララがいなくなれば学校で、ラインハルトが待機する小さな部屋の扉を叩く人間は誰もいなくなる。

 確かに今ラインハルトは、クララがいなくなってしまうことを寂しいと感じていた。自分にとって恋愛対象になり得ない彼女との会話や時間が、ひどく気楽で心癒されるものであったことを今になって改めて思い知る。もちろんそんな感情は一方的で、クララにとっては失礼この上ないのかもしれないけれども。

 また友人を失くした。大きな月の夜を、一歩足を進めるごとに何となく胸は痛んだ。クララは「あなたを理解して、寄り添える人といて」と言った。少なくとも彼女はラインハルトの弱さ脆さ、そしてずるさを知ってその上でドアを叩いてくれた。自分が異性愛者であればクララを愛していただろうか。クララは自分を愛してくれただろうか。そんな想像をしてみるが、もちろん何もかもは意味のないことだと知っている。

 ラインハルトのありのままを理解してくれる人――その上で寄り添ってくれる――そんな人間がこの世に本当にいるのだろうか。

 ほんの少し高揚感すら伴うほろ酔いは夜道を歩く間に醒めていき、次第にラインハルトの胸の中を心許せる友人を失ったことによるうっすらとした悲しみが覆っていった。

 てっきり消えていると思った部屋の明かりはまだ灯っていた。てっきり電気を消し忘れたまま眠ってしまっているのだと思っていたルーカスはソファに座っていて、ラインハルトがドアを開いた瞬間、顔を上げて不満と安堵の入り混じったような表情を投げかけてくる。

「ただいま。……なんだ、起きてたのか」

 ルーカスの妙な表情の意味がわからないまま、ラインハルトは戸惑いがちに口を開く。

「だって帰ってこないんだもん」

 要するに彼が拗ねているのだと気づいたのは、投げやりなようでどこか媚びを含んだ答えを聞いてから。しかしなぜそんなことでルーカスが気分を損ねるのかは、やはり判然としない。

「遅くなるって言っただろう」

 ラインハルトは何の後ろめたさもないにも関わらず自分の口調が言い訳じみていることに気づく。遅くなるから夕食はいらないと告げてから出かけたのだから責められるいわれなどないのに、ルーカスの勢いに押される。

「何の予定があって、何時になるかも言わないままね。酒の匂いと、甘い匂いがするよ」

 立ち上がったルーカスはラインハルトに向けて鼻を鳴らす。

 こんなことはずっと前、出会って間もない頃にもあったような気がする。そうだ、ちょうど暗い歩道で転んだクララを助けた晩。遅く帰ったラインハルトから女の香水の匂いがすると言ってルーカスは絶望に似た表情を見せた。育ての両親を失い、その親族から疎まれてやってきた場所でもやはり自分は邪魔者なのだと、この世の全てをあきらめたかのようにつぶやいた。

 でも、あの頃と今は違う。ラインハルトとルーカスは共に時間を過ごし、互いの劣等感を打ち明け、それなりに信頼しあっているはずだった。たった一晩帰りが遅くなった程度でルーカスを放り出しかねないように思われるのは心外だ。

「ちょっと飲んだだけだ」

「女の人と?」

 アルコールの香りを指摘されたラインハルトの答えに、ルーカスは当て付けのような言葉を足す。

「関係ないだろ」

 追及されれば面白くなくて、思わずラインハルトが突き放したような言い方をすると、ルーカスは途端に弱気に目を伏せて「そりゃそうだけど」とつぶやいた。

 ルーカスが女性の影を気にしているのは知っている。彼はラインハルトに恋人ができれば邪魔者の少年は追い出されてしまうに違いないと信じているから。もちろんラインハルトが決して女性を愛することができないことなど、ルーカスは夢にも思っていないのだ。

 もちろんラインハルトには、ルーカスに自分の一般的ではない性志向を打ち明ける気などない。いくら邪な気持ちはないのだと言っても、きっとラインハルトが同性愛者だと知った瞬間にルーカスが寄せてくれる素朴な信頼や親愛の情は消えてなくなるだろう。敬虔なカトリックのハウスドルフ夫妻に育てられたルーカスにとって同性愛は悪魔の所業。彼はきっと嫌悪と侮蔑の入り混じった目でラインハルトを見るだろう。何しろ血の繋がった父親すらそうだったのだ。

「……同僚の女性が結婚するから送別会だった。ハグくらいするだろう。それだけだよ」

 ルーカスがまだ納得していない顔をしているので、ラインハルトはやっとのことでそれだけ告げた。何ひとつ嘘はないしルーカスを不安にさせるようなこともしていない。いもしないラインハルトの恋人にこの部屋を追い出される心配などナンセンスなのだ。

 ルーカスはそれでもまだ何か納得がいかないような顔をしていた。しばらくためらって、再び口を開く。

「僕、背が伸びただろ? 体だってどんどん大きくなってる」

 それは唐突だった。ラインハルトの帰宅が遅くなったこととも、女性の匂いとも関係のない話。ラインハルトは戸惑いながらも「ああ」とうなずいた。

 確かにルーカスの身長は伸びた。以前はずっと低い場所にあったルーカスの目線。しかし今は体をかがめなくとも目を合わせることができる。骨格自体もどんどん大人の男に近づいて行き、下手をすれば数年内に背丈を追い抜かれてしまうのではないかと思うくらいだ。

 ラインハルトの最近の悩みは、リビングのソファがルーカスにもすっかり寸足らずになってしまっていることだ。この部屋にやってきた頃は、小柄なルーカスがソファで眠るのは理にかなっていた。だが彼の足先がソファの座面に収まらなくなってしまった今、自分だけが悠々と全身のおさまる寝台で眠ることには若干の罪悪感もある。

「前にラインハルトが言っていたこと、わかるよ。体が痛くてきしんで、目を覚ますたびにまた背丈が伸びて体が大きくなっているって感じ。それが今の僕だ」

 ルーカスはそこで一呼吸。そして続けた。

「ねえ、あんたは僕の髪や細い手足に憧れて、だから僕を引き取ったんだって言ったよね。だったら……理想の少年じゃなくなった僕をここから追い出したいと思う?」

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