ラインハルトは自分の対応が誤っていたことには気づいていたが、同時にその場で余計なことを口にしたところで墓穴を掘るだけであろうこともわかっていた。
確かにラインハルトはルーカスの少年らしい美しさに満ちた外見に憧れ執着していると告白した。だが一方で、その思慮深さや優しさが外見以上の美徳であることも告げたはずだった。それでもルーカスに疑いの言葉を吐かせてしまうのは、何が足りないのだろう。頭を巡らせるが瞬時に答えなど出るはずはない。
ラインハルトはそれ以上ルーカスの言葉を肯定することも否定することもせず、代わりに翌朝、洗面台に買い置きのシェーバーをそっと置いておいた。ルーカスは特に礼を言うこともなかったが、それを突き返すこともしなかった。
思春期の少年特有の成長の早さも、自らの変化に対する戸惑いも含め、総じて難しい年頃だということはわかっている。でも、張本人として早すぎる変化に晒されることだけでなく、第三者として向き合うことがこんなに厄介だとはラインハルトは想像もしていなかった。
毎月ルーカスの叔父から払い込まれる生活費には手をつけることはなくそのまま本人に渡している。ルーカスは当初、全額、少なくとも一定額をラインハルトに納めると主張したが受け取る気にはなれなかった。父からもルーカスの親族からも特段疑うような言葉をかけられたわけではないが、自分は金銭目的でルーカスを預かっているのではないという矜持があった。
そもそも家賃についてはルーカスがいようがいまいがかかっているものだし、食糧や生活用品は手が空いている方がそれぞれ適当に買い出しをしている。学用品や衣料品のようなルーカスの個人的な持ち物は、必要となったつど自分で買い物をしているようだった。
そういえばここに来た頃にいつも着ていた服も靴もすっかり見かけなくなった。体に合わなくなったものは勝手に買い換えているのだろう。朝ルーカスの眠るソファの脇に脱ぎ捨てられた靴は、ラインハルトのものとほとんど変わらないサイズになっている。「早く大きくなりたい」と言って、小さな体にあれだけ目一杯の食べ物を詰め込んでいたのだから育たない方がおかしいのかもしれないが、目を閉じたときに思い浮かべる華奢な少年の姿と、自分とたいして変わらない背丈に育った今のルーカスの姿のギャップはラインハルトをただただ戸惑わせる。
本来ならば、預かっている少年が健康的に成長しているのは喜ばしいはずなのに、それを素直に嬉しいと思えない自分がおかしいのはわかっている。しかし、互いに警戒するばかりの時期から、衝突やトラブルを乗り越えてようやく一緒に暮らしていく自信を持つところまでこぎつけた。やっと手にしたぎりぎりの安定感が、ルーカスの成長のせいで再び危うくなりはじめているのだと思うとどうしようもない不安に苛まれた。
だからその晩も、ラインハルトはなかなか眠りにつくことができなかった。
父親に見放され、オスカルと疎遠になり、自分はもう他人と深く関わることはないのだと思っていた。誰かを愛し愛されることもないし、女性を愛せないのだから子どもを持つこともない。むしろ、また心許した人を失って傷つくならば、目立たずひっそり、誰ともつながりを持たずに生きる方が楽なのだと自分に言い聞かせていた。
でも、たとえ動機がどのようなものであろうとラインハルトはルーカスを家に招き入れた。彼を庇護する大人としての義務を意識する一方で、彼の存在に救われた。だがそれはきっと家族でもなく、友人でもなく、恋人にもなりえないという特殊な立ち位置ゆえのものなのだろう。ルーカスが身寄りをなくして庇護を必要とする、赤の他人の可哀想な子どもだからこそ自分と彼の関係は成り立っている。きっと。
ルーカスがいつか成長しここを出て行くことは遥か彼方にあるぼんやりとした不安だった。でもそんなことよりも、ずっと早いスピードでルーカスはすぐに少年ではなくなるし、ただそれだけのことで危ういバランスは壊れてしまいかねない。
月の明るい初夏の夜。窓から薄く白い光が差し込んで、真夜中であるにも関わらず寝室の内部がはっきりと見通せる。夜になっても気温が下がりきっていなかったので、窓はうっすら開けてあるがそれでも暑さを感じるくらいだった。
妙なことを考えてしまうのは眠れないからで、眠れないのは暑いからなのだろう。寝返りばかりを繰り返していたラインハルトは上掛けを払いのけるとゆっくりと寝台を降り、窓を開けに向かった。
木枠の窓は滑りが悪く、持ち上げようとするとひどく重く感じられる。軽い力ではびくともしないし、あまりに力を込めて真夜中に大きな音を立てれば近所から苦情がくるかもしれない。そんなことを考えて結局窓を開けることはあきらめる。
これ以上窓が開かないと思うと、ひときわ部屋の暑さが増したように感じた。と同時にラインハルトはのどの渇きを覚えはじめる。
キッチンに向かうにはルーカスの眠るリビングを通らなければいけない。寝ている彼を起こすのがしのびないから、普段ラインハルトは夜中にキッチンやバスルームに行く必要がないよう、遅い時間の飲食は控え寝る前に用を足すなど自分なりの配慮をしていた。
しかし、今日の渇きは格別だった。窓が開かない、水も飲めない。この調子では朝まで一睡もできないのではないかと不安になる。そしてしばらく思い悩んだあげくにラインハルトは足を忍ばせて水を飲みに行くことにした。
そっとドアノブに手をかける。軋みやすい扉だが、音を立てないコツはわかっている。ゆっくりと部屋を出てキッチンでコップ一杯の水を飲むだけならば、ルーカスを起こすことなくやってのけられる。
少しずつドアを押し人が一人通れる隙間を作り――だがそこでラインハルトは息を飲む。
「……はぁ……」
耳に入るのは、荒い息づかい。
一瞬頭をよぎったのは、ルーカスが具合を悪くしているのではないか。熱にうなされでもしているのではないか。自分が音を出さないよう細心の注意を払っていることすら忘れて、眠る彼に向かって駆け出しそうになる。だが、ぎりぎりのところでそれをしなかったのはリビングに漂う空気の奇妙な重さとソファの軋む音に気づいたからだ。小さく、しかし確かにソファのスプリングが軋む音にルーカスの荒い息が重なる。
まさか――その答えに思い至った瞬間、身体中の血が顔に集まるような気がした。驚き、ショック、恥ずかしさ、気まずさ。様々な感情が一気に押し寄せてラインハルトはその場に立ち尽くす。頭の中では、見なかったことにすべきだとわかっていた。扉を閉めてベッドに潜り込んで、何もかも忘れるべきだとわかっていた。
それでもラインハルトは凍りついたようにその場を動けず、ソファの背もたれに遮られた視界の先で、ルーカスが自慰行為にふける声と音を、ただ呆然と聞いていた。