Chapter 3|第39話

 ルーカスを引き取って以降、何度かは父から連絡があった。父としてはラインハルトの「病気」が治ったことを確認するためにルーカスを差し出し試したい気持ちと、もし何か――例えばラインハルトがルーカスによこしまな行為に出るようなことがあれば、教会の仲間たちの手前立つ瀬がないという不安の板挟みになっていたのかもしれない。

 ラインハルトは父のそんな身勝手さを許す気にはなれないので、ルーカスを預かった日からは一度も実家に顔を出していない。父からの電話にも折り返さない。どこまで詳しい事情を知らされているのかわからない母と姉がときおり、遠慮がちに連絡をよこす。ラインハルトからすればそれだけがかろうじて家族の近況を知ることができる機会だった。

 父や家族は、教会のコミュニティを通じてラインハルトがルーカスを長期的に預かることとなった敬意を知ったようだ。父の性格からすればラインハルトが良からぬ目的で子どもをかどわかしたのではないかと疑ってきそうなものだが、そこはルーカスの親戚たちがラインハルトへの感謝の意を示していることでとりあえずは納得しているらしい。息子の慈善的な行為を人に褒められ悪い気はしないのだろう。

 ラインハルト自身には父の心配するような意味での後ろめたさは一切ない。そのことは自信を持って言い切ることができる。しかし――ルーカスの示す未熟な感情が、ときどきラインハルトの心をざわめかせることもまた、確かだった。

 彼は子どもで、しかも孤独だ。頼る者を失った少年が唯一手を差し伸べ屋根を貸してくれる人間に対して心を預けることも、その手を失うことを極端に恐れることも何ひとつ不思議ではない。庇護者への、親に似た存在への執着。それがルーカスがラインハルトに抱く感情のすべてと言ってもいいくらいだ。そのことを頭では理解していても、少しずつルーカスの存在は、想定外の形でラインハルトの中に染み込んでくる。

 例えばルーカスがラインハルトに移ったクララの香水の匂いに不愉快そうな表情を見せたとき。これ以上成長すればラインハルトの歓心を失うのではないかと不安げな素振りを見せたとき。子どもらしいくだらない心配だと笑い飛ばす反面、自分はいくらかの喜びを感じはしなかっただろうか。

 ぐにゃりと足元が柔らかく沈むような感覚。もしかしたら自分が今立っている場所は、思った以上に脆く危ういのではないか。庇護すべき子どもだから、過去の自分と似ているから。そんな言葉で自分を納得させてきたけれど、ルーカスは遠くない将来、子どもではなくなる。昔のラインハルトとも、今のラインハルトとも似ても似つかない青年に姿を変えていく彼を前に、いつまでこのままの関係性を維持することができるのだろうか。

 ラインハルトはふと湧き上がった不安をなんとか振り払おうとするが、そうしようとすればするほど、嫌な予感はヘドロのようにべっとりと胸の奥に溜まっていくようだった。

 そんなことを考えているからか、数日後、突然シャワーを終えたルーカスが発した言葉はラインハルトを思いのほか動揺させた。

「ねえ、シェーバーを借りてもいい?」

 濡れた髪を拭きながらバスルームから出てきたルーカスは、軽い調子でそう口にしたが、ラインハルトは瞬時にはその意味がわからない。洗面台の棚には、ラインハルトが身だしなみを整えるためのシェーバーが置いてある。

 髭剃りは楽しい時間ではないが、使わないわけにはいかない。ラインハルトは毎朝剃刀の刃を肌に滑らせるたびに、そんな物が必要なかった頃の自分を思い出しうんざりした気分になる。

「……何に使うんだ、そんなもの」

 ルーカスとシェーバーが頭の中で結びつかないラインハルトが素朴な質問を口にすると、なぜだかルーカスは気まずそうな素振りを見せた。視線をそらしたまま顎の下の方を何度か落ち着きなく撫でてから、低く小さな声で答える。

「用途なんか決まってるだろ。シェーバーって、髭剃り以外に何に使うんだよ」

「まだ早いだろ!」

 考える前に言葉が口を飛び出していた。しかも、叱るようなきつい口調で。

 ルーカスの表情が険しくなるのがわかった。当たり前のことだ。ただシェーバーを貸してくれと頼んだだけで、叱責されるとは思いも寄らなかったのだろう。

「……あ」

 ラインハルトは我に返るが、一度口にした言葉は戻らないし、ルーカスの固い表情もそのままだ。

「だって、まだそんな必要……」

 理不尽に声を荒げた気まずさで正面からルーカスの顔を見ることができない。しかし横目で見る限りでも、まだつるつるとしたルーカスの顔のどこにもシェーバーが必要であるようには思えない。口周りの産毛が少し濃くなってきたような気はするが、髪と同じ金色なので気になるほどでもない。

 しかし、ルーカスは顎の下側をしつこく撫でながら、言う。

「見えないあたりが、ちょっとチクチクするんだ」

 どうやら正面からは見えない顎下に、本人としては剃る必要を感じるほどの髭が生えてきているらしい。

 はっきりと理由を申し立てられれば、一方的にまだ早いなどと断じた自分が恥ずかしくなる。ラインハルトは気まずさに耐えかねて、とりあえず買い置きのシェーバーを渡してやるべきかと、バスルームへ一歩踏み出しかけるが、今度はルーカスが制止した。

「やっぱり、いい。いらない。忘れて」

「忘れてって……そのままじゃ気持ち悪いんだろう?」

 ラインハルトは背中を嫌な汗が伝うのを感じた。自分がルーカスの成長を恐れはじめていること――それは多分、ルーカスが思っているのとは違う意味で――に気付かれはしないだろうか。そんな焦りで頭がいっぱいになる。

「いいんだ」と、ルーカスはもう一度繰り返した。そしてラインハルトの気持ちを知ってか知らずか、続ける。

「嘘つき。やっぱり、僕の見た目があんたの理想から離れていくのが、嫌なんだ」

 そうじゃない、と思った。でも一体何がどう違うのか、自分が本当は何を怖がっているのか、そういったことをきちんと説明できる自信はない。何しろラインハルト自身もこの不安の原因がなんであるかをはっきりとは理解できていないのだ。だからきっと、ルーカスが誤解しているのならば、それはそれでむしろ都合がいいことなのかもしれない。