Chapter 3|第42話

 父が懸念したような下心など一切ないと自信を持って言い切れるはずだった。少なくとも昨晩までは。でも、今は? 同じ屋根の下の少年は、やがてひとりの青年に、男になる。そんな当たり前のことを一度だって思い描かずにきた自分のことを、ラインハルトは心底愚かだと思う。

 オスカルをあきらめたときに恋愛そのものをあきらめたはずだった。同性を愛することはまっとうでないと理解していたからこそ、自分が誰かに恋をしたとして思いが通じる可能性は限りなく低いはずだ。それでもオスカルがほんのいっときであれ振り向いてくれた理由が中性的で美しい外見にあったのならば、醜く成長したラインハルトに興味を抱く男など、どこにもいないに決まっている。

 幸い、恋愛への諦観がラインハルトにもたらしたものは、寂しさだけだった。思春期の頃から今まで肉体の渇きにまったくといっていいほど悩まされずにきたのは、それこそ幼い頃から叩き込まれた教会の教えのおかげなのだろう。

 父からは悪魔憑きと罵られ、教会から去ってもなおラインハルトの中には婚外交渉も自慰行為も貞節の教えに背くものであるという規範だけは失われずにいた。それは信仰を超えて骨身に染み付いている。

 同世代のカトリック教徒の中には、興味や欲望にあらがえず密かに禁を犯す者が少ないことは知っているし、自慰行為自体がそこまで重い罪とは見なされないことだってわかっている。だが同性愛という大罪から逃れないからこそ、ラインハルトは無意識に罪滅ぼしとして貞節の教えにだけは従順であろうとしてきたのかもしれない。

 思い出せない夢を見た後で、下着を汚していることに気づく朝は稀にあった。それ自体いくらかの後ろめたさを感じさせはしたが、ただの生理現象だと自分を納得させた。ラインハルトはこれまで、自分の体にも他の誰かの体にも、欲望ををもって触れることを想像すらしたことはなかった。

 だから、ルーカスに触れられたうなじが焼けるように熱くなったことやその熱が体中に広がってどうしようもなく苦しい気持ちになったこと、すべてがラインハルトにとってはひどいショックだった。自覚していた以上に自分は汚れているのかもしれない。そして、悪魔に憑かれたその先にはまだ落ちていく先があるのかもしれないこと。

 そう、まだここは底ではない。ここより先にはより深い闇と罪がある。そして、ラインハルトはもう深淵のすぐそばに立っていて、ほんの少しぐらつけば足を滑らせてしまうかもしれないのだ。

 重い気持ちで一日を過ごし、帰宅すると体調を崩したふりをして早々と寝室に引きこもろうとした。ルーカスの顔を見ることも、声を聞くことも恐怖だった。

「食欲がないならせめてオートミールか何かでも」

「いらない」

 話しかけてくる声はごくごくいつも通りのものなのに、ラインハルトの耳には昨晩聞いた熱く荒い息が蘇る。頭がおかしくなりそうだった。

 ルーカスは何も知らない。いくら信心深いハウスドルフ夫妻に育てられたとはいえ、好奇心も欲望も強くなる年頃だ。最近の進歩的な少年たちと同じように深刻な戒律違反とは考えず、ただ体の熱をおさめただけのことだ。それをラインハルトに見られたなどとは夢にも思っていない。そもそもルーカスはラインハルトが同性愛者であることも知らないのだから、例えば気まずい場面を見られたと知ったとしても体裁悪く感じる程度で、ラインハルトが今感じている恐れや動揺については想像すらできないはずだ。

 ラインハルトはルーカスに自分の特異な性志向を知られたくはない。いくら住む場所のない彼を救い、後ろ暗い過去を知っても態度を変えなかった恩人だと思われているとしても――この秘密を知ればきっとルーカスはラインハルトの父と同様に、施された親切の裏に下心を勘ぐるだろう。それはラインハルトにとっては何よりも耐えがたいことだった。

「顔色も悪いし、もしかして熱でもあるんじゃ……」

 伸ばされた指先が怖くて思わず手が出た。ぱしっと音がして、ルーカスの指はラインハルトの額にたどり着くことなく宙に浮く。驚いたような表情にじわりと傷ついた色が広がるのを見て、ラインハルトの胸にも微かな痛みが生まれる。ルーカスはただ具合の悪そうなラインハルトを心配しているだけだ。なぜ自分の手がはたき落とされるのか理解できず、戸惑い、ショックを受けている。

「……ごめん」

 思わず謝るが、ラインハルトはそれ以上の言葉を持たない。自分の行為の理由について語ることは堪え難い秘密の告白に等しい。だから無言のままルーカスに背を向けた。ルーカスもそれ以上何も言わず、寝室まで追ってくることもなかった。

 今はまだ大丈夫だ。ラインハルトにとってルーカスはただの同居人の――やや心を許しすぎてはいるものの――少年に過ぎない。彼に対して邪な気持ちなどない。でも、例えばもう一度触れられたら。もしもあの熱い吐息を近くで聞いたら。そのとき自分はどうなってしまうだろう。

 せめて貞節の罪だけは犯さない。それは神に、父に背いた自分にとって最後の一線だと思っていた。だがそれすらただの勘違いだったのかもしれない。ラインハルトはただ自分の中にある欲望から目を背けていただけで、人との関わりを避けていたから偶然それを呼び起こされることなくこの生きてきた。それだけのことなのかもしれない。

 シーツの中で体を丸めて、思い出せる限りの聖書の文句を頭の中で繰り返す。幼少の頃から数え切れないほど唱えさせられたから、いくら教会を離れても、教えを捨てたつもりでも、その気になればいくらだって呼び起こすことができる。

 オスカルへの恋心を意識し始めた頃、毎晩祈った。神様、僕はあなたを裏切ったりしない。だからお願い、オスカルを見たときに胸に湧き上がるこの気持ちはただの友情なのだと言ってください。他の男の子も、仲の良い友達にこんな風に甘ったるく切ない気持ちを抱いているのだと、僕は異常ではないのだと言ってください。もちろん神はその祈りを聞いてはくれなかった。

 だが、ラインハルトは自身の性向を認めてからも、幼い頃から付き従ってきた神を捨て去ることはできなかった。だから、「オスカルを奪わないで」とか「これ以上体を成長させないで」とか、ときどきに自分勝手な祈り捧げ続けた。そして神は一度だってラインハルトの望みを叶えてはくれなかった。ラインハルトは同性愛者のままだったし、オスカルは去り、体はみっともなく成長した。神はラインハルトを救う代わりにただ信仰をあきらめるのを黙って眺めていたのだ。

 だからきっと神様は今回も願いを叶えてはくれない。そんなことはわかっている。――わかっていても、祈ることがやめられないのだ。

 神様のことを考えていなければ邪悪な気持ちに絡め取られて、どうしようもない深い場所まで墜ちてしまう。もしかしたら、ルーカスを巻き添えにして。だから、ただラインハルトは祈った。絶望しながら一晩中神の名を呼んだ。

 翌日、職場宛に電話がかかった。こんなところに連絡してくるなんて実家の家族に違いないと思ったが、電話口で改まった声を出したのは予想外の人物だった。43

 突然の電話で「君と話がしたいんだ」と言って、やや強引にラインハルトを呼び出したのは、ルーカスの叔父だった。

 最後に顔を見たのは生活費の取り決めをしたいと言われたときだったから、もう二年近く前のことになる。あのときも、そもそも金銭を求める気はなかったラインハルトは、わざわざそんなことのためにルーカスの親族に会うことを億劫に思った。だが、後々のもめ事を嫌ってか、彼はどうしても公証人を入れて証書を作成するのだと譲らなかった。学もなく人生経験にも欠けるラインハルトは、もっともらしく契約の重要性を語られれば、うなずく他にない。

 しかし、生活費の話にはそうまでこだわった一方で、彼も他の親族もルーカスの過去が明らかになったときには一切連絡をよこさなかった。ルーカスがひどく動揺していることをわかっていたにも関わらず、実質的な保護者である自分に報告がなかったことは、ラインハルトの胸の中にいくらかのわだかまりを作っていた。

 ハウスドルフ家の人々がルーカスを持てあましていることは最初から承知している。親族の誰とも血縁関係のない厄介な遺児が、実はナチに名付けられ育てられた過去を持っていた――もしかしたら彼らは、そのことを知らせればラインハルトがルーカスの面倒を見ることを嫌がると思ったのだろうか。

 ラインハルトは、自分の抱えるわだかまりが彼らがルーカスへ冷淡であることに対しての不信感からくるものなのか、自分がそんな理由でルーカスを投げ出すと見くびられていたことへの不快感からくるものなのかよくわからない。ともかく、あのときは連絡のひとつもよこさなかったのになぜいまさら、というのが今回の電話を受けて最初に頭に浮かんだことだった。

 待ち合わせに指定されたのが、以前に生活費の話をしたときと同じ弁護士の事務所だということも漠然とした不安を駆り立てた。前回は弁護士を公証人に立てるという目的があったが、ルーカスの叔父は特段の面談の目的も明かさないまま今回も同じ場所を指定してきたのだ。

「話だけなら喫茶店でもなんでも……。なぜわざわざそんな場所に行かなきゃならないんですか」

 本当ならばもっときつい物言いをしたいくらいだが、自分が攻撃的な態度を取ることでルーカスに迷惑をかけるのも嫌だったし、何より電話は勤務先にかかってきたものだ。周囲に人目がある中で声を荒げるわけにもいかない。

「だって、ミュラー先生の事務所ならば以前にも一度待ち合わせているから、お互い場所もわかっているだろう。落ち合うには一番便利だ。何、彼には普段からいろいろと仕事を頼んでいる仲だ、場所くらい嫌な顔ひとつせず貸してくれるさ」

 少なくともラインハルトは嫌な顔をしたいところだが、結局は相手の強引さに折れた。用件について訊ねても、「最近のルーカスの様子が聞きたい」などという白々しい言葉ではぐらかされた。

 ルーカスならば、あの叔父の企みに心当たりがあるだろうか。そんな考えが頭をよぎるが、家に帰ってルーカスと二人になれば。とてもではないが切り出す気にはなれない。

 ラインハルトは、あの夜以来ルーカスとの接触を最低限にしていた。彼の顔を見て声を聞くとあのとき見聞きしたものが脳裏に蘇るのを止められず、自分のルーカスを見る目が変わってしまいそうな、いたたまれない気持ちになる。ルーカスはラインハルトの態度がおかしいことには気づいているのだろうが、いつもの気まぐれだとたかをくくっているのか、特に追求することもなく飄々と振る舞っていた。だから、結局ラインハルトはその日、外出の目的をルーカスには伝えないまま家を出た。

 弁護士事務所などというかしこまった場所には縁がないから、扉を開ける前には少し勇気が必要だ。受付に座っている愛嬌のない女性に用件を聞かれ、小さな声で「ここでハウスドルフさんと話をする約束を」と答える。受付嬢はにこりともしない代わりに特に不審げな表情を見せることもなく、ラインハルトを奥の応接テーブルに案内した。

 そこにはルーカスの叔父であるハウスドルフ氏の他にもうひとり中年の男が座っていた。顔に見覚えがある。生活費の取り決めの際に公証人を務めた、この事務所を経営する弁護士のミュラーだった。

「やあ、ヘンスくん、よく来てくれた」

 ハウスドルフ氏は愛想のよい笑顔を浮かべて立ち上がるとラインハルトに向かって右手を差し出す。ただ場所を貸すだけのはずのミュラーがそこに座ったままでいることに違和感を抱きながら、ラインハルトもおずおずと右手を出した。

「それで、最近のルーカスの様子はどうだい?」

 握手を終えて革張りのソファに座ると、まずそんなことを聞かれる。どことなくわざとらしい雰囲気に、ラインハルトはすでにハウスドルフ氏が今日自分をここに呼んだ目的が、ただルーカスの様子を聞くこと以上の何かであると確信していた。

「特に変わりはないです」

 そう答えながら、この間の「あれ」が脳裏をかすめるが、当然ここでルーカスの叔父相手にそんな話ができるはずもない。慌てて余計な考えを追い払う。

 学業成績は良好であること、健康状態に問題はなくずいぶん背も伸びたこと――学校でも家でも特に問題行動はないこと。ルーカスを快く思っていないであろう人間相手だからこそできるだけ当たり障りのないことを淡々と答えるラインハルトに、目の前の男はときおりうなずき相づちをうちながら耳を傾けていた。

「そうか、安心したよ。なんせあの子は生育環境も複雑だからね。ちょっとしたことで拗ねたり歪んだりしたっておかしくはないが、素直にまっすぐ育っているようだ。ヘンスくん、君のところがよっぽど居心地が良いんだろう」

 ひとりきりラインハルトが話し終えると、ハウスドルフ氏は満足げにそう言った。

「いえ、そんな」

 思わず首を振って否定するが、それは謙遜ではない。ルーカスが賢く優しく大人びているのはラインハルトのためではない。目の前の男がルーカスをどんな風に思っているのかわからないが、ルーカスの美徳は彼を産んだ両親や、優しく慈愛に満ちた養父母によって育まれたものだ。

 ハウスドルフ氏はひとしきりラインハルトに歯の浮くようなお世辞を言い続けたが、突然真面目くさった表情になり、身を乗り出して声を低くする。

「で、ヘンスくん、君に話があるんだが」

 来た、と思った。ここから先が、今日の面会の本題だ。一体何の話なのだろう――息を飲むラインハルトに、彼は続けた。

「ルーカスも君にずいぶん懐いているようだし、君さえ良ければあの子を養子にとらないか」