Chapter 3|第43話

 突然の電話で「君と話がしたいんだ」と言って、やや強引にラインハルトを呼び出したのは、ルーカスの叔父だった。

 最後に顔を見たのは生活費の取り決めをしたいと言われたときだったから、もう二年近く前のことになる。あのときも、そもそも金銭を求める気はなかったラインハルトは、わざわざそんなことのためにルーカスの親族に会うことを億劫に思った。だが、後々のもめ事を嫌ってか、彼はどうしても公証人を入れて証書を作成するのだと譲らなかった。学もなく人生経験にも欠けるラインハルトは、もっともらしく契約の重要性を語られれば、うなずく他にない。

 しかし、生活費の話にはそうまでこだわった一方で、彼も他の親族もルーカスの過去が明らかになったときには一切連絡をよこさなかった。ルーカスがひどく動揺していることをわかっていたにも関わらず、実質的な保護者である自分に報告がなかったことは、ラインハルトの胸の中にいくらかのわだかまりを作っていた。

 ハウスドルフ家の人々がルーカスを持てあましていることは最初から承知している。親族の誰とも血縁関係のない厄介な遺児が、実はナチに名付けられ育てられた過去を持っていた――もしかしたら彼らは、そのことを知らせればラインハルトがルーカスの面倒を見ることを嫌がると思ったのだろうか。

 ラインハルトは、自分の抱えるわだかまりが彼らがルーカスへ冷淡であることに対しての不信感からくるものなのか、自分がそんな理由でルーカスを投げ出すと見くびられていたことへの不快感からくるものなのかよくわからない。ともかく、あのときは連絡のひとつもよこさなかったのになぜいまさら、というのが今回の電話を受けて最初に頭に浮かんだことだった。

 待ち合わせに指定されたのが、以前に生活費の話をしたときと同じ弁護士の事務所だということも漠然とした不安を駆り立てた。前回は弁護士を公証人に立てるという目的があったが、ルーカスの叔父は特段の面談の目的も明かさないまま今回も同じ場所を指定してきたのだ。

「話だけなら喫茶店でもなんでも……。なぜわざわざそんな場所に行かなきゃならないんですか」

 本当ならばもっときつい物言いをしたいくらいだが、自分が攻撃的な態度を取ることでルーカスに迷惑をかけるのも嫌だったし、何より電話は勤務先にかかってきたものだ。周囲に人目がある中で声を荒げるわけにもいかない。

「だって、ミュラー先生の事務所ならば以前にも一度待ち合わせているから、お互い場所もわかっているだろう。落ち合うには一番便利だ。何、彼には普段からいろいろと仕事を頼んでいる仲だ、場所くらい嫌な顔ひとつせず貸してくれるさ」

 少なくともラインハルトは嫌な顔をしたいところだが、結局は相手の強引さに折れた。用件について訊ねても、「最近のルーカスの様子が聞きたい」などという白々しい言葉ではぐらかされた。

 ルーカスならば、あの叔父の企みに心当たりがあるだろうか。そんな考えが頭をよぎるが、家に帰ってルーカスと二人になれば。とてもではないが切り出す気にはなれない。

 ラインハルトは、あの夜以来ルーカスとの接触を最低限にしていた。彼の顔を見て声を聞くとあのとき見聞きしたものが脳裏に蘇るのを止められず、自分のルーカスを見る目が変わってしまいそうな、いたたまれない気持ちになる。ルーカスはラインハルトの態度がおかしいことには気づいているのだろうが、いつもの気まぐれだとたかをくくっているのか、特に追求することもなく飄々と振る舞っていた。だから、結局ラインハルトはその日、外出の目的をルーカスには伝えないまま家を出た。

 弁護士事務所などというかしこまった場所には縁がないから、扉を開ける前には少し勇気が必要だ。受付に座っている愛嬌のない女性に用件を聞かれ、小さな声で「ここでハウスドルフさんと話をする約束を」と答える。受付嬢はにこりともしない代わりに特に不審げな表情を見せることもなく、ラインハルトを奥の応接テーブルに案内した。

 そこにはルーカスの叔父であるハウスドルフ氏の他にもうひとり中年の男が座っていた。顔に見覚えがある。生活費の取り決めの際に公証人を務めた、この事務所を経営する弁護士のミュラーだった。

「やあ、ヘンスくん、よく来てくれた」

 ハウスドルフ氏は愛想のよい笑顔を浮かべて立ち上がるとラインハルトに向かって右手を差し出す。ただ場所を貸すだけのはずのミュラーがそこに座ったままでいることに違和感を抱きながら、ラインハルトもおずおずと右手を出した。

「それで、最近のルーカスの様子はどうだい?」

 握手を終えて革張りのソファに座ると、まずそんなことを聞かれる。どことなくわざとらしい雰囲気に、ラインハルトはすでにハウスドルフ氏が今日自分をここに呼んだ目的が、ただルーカスの様子を聞くこと以上の何かであると確信していた。

「特に変わりはないです」

 そう答えながら、この間の「あれ」が脳裏をかすめるが、当然ここでルーカスの叔父相手にそんな話ができるはずもない。慌てて余計な考えを追い払う。

 学業成績は良好であること、健康状態に問題はなくずいぶん背も伸びたこと――学校でも家でも特に問題行動はないこと。ルーカスを快く思っていないであろう人間相手だからこそできるだけ当たり障りのないことを淡々と答えるラインハルトに、目の前の男はときおりうなずき相づちをうちながら耳を傾けていた。

「そうか、安心したよ。なんせあの子は生育環境も複雑だからね。ちょっとしたことで拗ねたり歪んだりしたっておかしくはないが、素直にまっすぐ育っているようだ。ヘンスくん、君のところがよっぽど居心地が良いんだろう」

 ひとりきりラインハルトが話し終えると、ハウスドルフ氏は満足げにそう言った。

「いえ、そんな」

 思わず首を振って否定するが、それは謙遜ではない。ルーカスが賢く優しく大人びているのはラインハルトのためではない。目の前の男がルーカスをどんな風に思っているのかわからないが、ルーカスの美徳は彼を産んだ両親や、優しく慈愛に満ちた養父母によって育まれたものだ。

 ハウスドルフ氏はひとしきりラインハルトに歯の浮くようなお世辞を言い続けたが、突然真面目くさった表情になり、身を乗り出して声を低くする。

「で、ヘンスくん、君に話があるんだが」

 来た、と思った。ここから先が、今日の面会の本題だ。一体何の話なのだろう――息を飲むラインハルトに、彼は続けた。

「ルーカスも君にずいぶん懐いているようだし、君さえ良ければあの子を養子にとらないか」