Chapter 3|第44話

 予想外の申し出に、ラインハルトは言葉を失う。聞き間違いだろうか。今、この男は何と言った? まさか、ルーカスを養子に、だと?

 ハウスドルフ氏は笑顔を貼り付けたまま、しばらく反応をうかがうようにじっとラインハルトを見つめていたが、返事がないことに不安を感じたのか慌てたように言う。

「いや、別に無理にと言っているわけではないんだ。ただあの子と君は気が合うようだし、君のところはご両親も教会の奉仕活動に熱心だと聞いたから、もしかしたらそういう考えもあるのかもしれないと思ってね」

 少し早口なのは沈黙が気まずいからに違いない。この後に及んで良識的な大人の男である彼は、自分たち一族がルーカスを積極的に厄介払いしようと思っているわけではないというアピールに必死なのだ。それとも本気でラインハルトが彼らの真意に気づかないほどおめでたい脳みそをしていると思っているのだろうか。

 まあ、そうであったとしても仕方ない。きっと口ひげをきれいに整えて仕立ての良いスーツを着た彼にとって、パン屋の息子で高等教育も受けていない学校用務員はただのお人好しの馬鹿にしか見えないのだ。

 もしも人並みのプライドがあれば、自分やルーカスをあまり見くびるなと、目の前の男に食ってかかるのだろうか。しかしラインハルトはただうつむいて、耳にしたばかりの単語を口の中で繰り返してみる。

「養子……」

 そんな選択肢、そんな可能性、考えたことはなかった。一瞬浮かぶのは甘い妄想。もしもルーカスを法的に自分の子にしてしまえば、彼はラインハルトのものになる。十八歳になった彼を手放すことに怯えることもなく、誰に遠慮することもなくルーカスとの暮らしを続けることができる。そんな考えに目がくらみそうになるが、続くハウスドルフ氏の言葉に現実に引き戻された。

「ああ、そうだ。君みたいに若いと普通ならば簡単には養子はとれないだろうが、このミュラー弁護士は家族関係の問題には強いから、力になってくれる」

 それが、今日の待ち合わせ場所がこの弁護士事務所になった理由だ。「普通ならば」二十代前半の独り身の男は、十六歳の少年を養子になんてしない。それこそ有能な弁護士の手を借りなければいけないくらい、珍しく特別なことだということを彼らだって知っている。だが、本当に問題なのは手続きなどではなくて――。

 短い妄想から覚めたラインハルトは現実に叩きのめされる。だって、そもそもこのままルーカスと暮らし続けたとして先にあるのは平穏な日々なんかではない。自分がルーカスを欲望の対象として見ることができる、その可能性に気づいた今ラインハルトにとって彼との生活が長引くことは、気まずさや苦しみがそれだけ長く続くことを意味するのだ。

 ただでさえ、あの晩以降ルーカスの顔すらまともに見られなくなっている。なのに養子の話を持ち出され、ほんの一瞬でもルーカスを手放さずにすむと喜んだ自分はどこまで罪深いのだろう。

 もしかしたら、いや、きっと父は間違っていなかった。父はあのときラインハルトが自覚していない深い闇や、隠された暗い欲望に気づいてあえて釘を刺してきたのかもしれない。ラインハルトの中に潜んだ悪魔が、やがてルーカスに邪な感情を抱く日がくることを見抜いて。

「……ヘンスくん?」

 うつむいて黙ったままのラインハルトに、目の前の男は不審そうな視線を向け、それから隣の弁護士に目配せをした。

「急な話で驚いただろう。こちらのハウスドルフさんも、別に君を驚かせようとしたわけでも、急かしているわけでもない。ただ君やルーカスくんの人生に、ひとつでも多くの選択肢があれば良いと思って親切心で言い出したことだ」

 ミュラー弁護士は落ち着いた声色でラインハルトに語りかける。自分が決してただのハウスドルフ氏の代弁者ではないということを言いたいのか、養子縁組をした際にラインハルトに生じうるデメリットについて付け加えることも忘れなかった。

「まあ、もちろんね、今後結婚をする場合なんかに、養子がいることが多少問題になる可能性もなくはないだろうが、そのときだってできる限りの協力はさせてもらう」

「結婚なんて、そんな」

 思わず口をついた正直すぎる言葉。だが目の前の男たちは幸いそれを、ラインハルトが意図したようには受け止めなかった。

「いやいや、今は考えていないかもしれないが、君だってそのうち」

「真面目だし、なかなか見目もいい青年なんだから、引く手も数多だろう。なんなら見合いだって紹介できる」

 ようやく口を開いたラインハルトに対して、軽口でなんとか場を和ませようとする大人の男ふたりの姿は滑稽なくらいだった。

 こいつらは馬鹿だ、と思う。ラインハルトは結婚なんかしない。ラインハルトはこのままの生活を続ければきっとルーカスに悪い影響を及ぼす。養子として自分の支配下に置いた少年に良からぬ欲望を抱き、もしかしたら――。

 耐えきれない気まずさに、養子の話を断り席を立とうとしたそのときだった。事務所の扉が開く音、「ただいま戻りました」という若い男の声に「お疲れさま」と返すのはあの仏頂面の受付嬢の声のはずだが、どことなく機嫌良さそうに聞こえる。近づいてきた足音は応接セットの脇をすり抜けようとして、ミュラー弁護士の存在に気づいたのか、その場に立ち止まる。

「お、お帰り。どうだった? 今日の傍聴は勉強になっただろう」

 ミュラー弁護士が顔を上げ親しげに話しかけると、その人影は、若さと前向きさにあふれたはきはきとした態度で言葉を返した。

「ええ、さすがですね。ベッカーさんの弁護を聞いていると弁護士に憧れます。いや、もちろん所長が僕の一番の憧れですが」

「口の上手いやつだな。いいんだぞ、そんなに俺に憧れているなら、大学院なんか辞めて今すぐうちの事務所に入ってくれても」

「はは、それはもうちょっと考えさせてください」

 どことなく重苦しかった空気が、爽やかな風に一掃されたかのようだった。自分ひとりを取り残して盛り上がりはじめる応接ブースで、ラインハルトは立ち上がるタイミングを完全に逸してしまった。

 うつむいたままのラインハルトをよそに、ハウスドルフ氏までも会話に加わろうとする。

「ミュラーさん、彼は?」

「ああハウスドルフさん、紹介が遅れましたな」

 問われて、ミュラー弁護士はまるで息子を自慢する親馬鹿のように嬉しそうな声を出した。

「彼は私の友人の息子で、スイスの大学で今法学修士のコースに通っているんだよ。正義感もある賢い男だから私は是非弁護士になって欲しいと思って、夏休みの間ここでインターンシップさせて、こっちの世界に引き込もうとしているんだ」

 ハウスドルフ氏が立ち上がる。

「やあ、はじめまして。私はハウスドルフという者で、ミュラーさんには長らくお世話になっているんだ。いや、こんな有望な若手も捕まえているなんてね」

 歯の浮くようなお世辞に、男が笑う。続いて、ラインハルトの頭上から降ってくる声。それはまったく聞き覚えのないものだったが、彼の口にした名前にラインハルトは思わず顔を上げた。

「はじめまして、僕はオスカル――」

 ありふれた名前だ。そんな名前に反応して顔を上げてしまう自分の情けなさに笑ってしまうくらいに、この世に同じ世代の、同じ名前を持つ男はありふれているはずだった。

 ハウスドルフ氏と笑顔で握手を交わそうとしていた男は、突然顔を上げたラインハルトの方をちらりと横目で見て、そして驚いたように動きを止める。

「あれ、もしかして……」

 エキゾチックな黒い髪と、少しだけ濃い色の肌。賢さと自身に満ちあふれた瞳。ラインハルトはその男を知っていた。子どもの頃は毎日顔を合わせてその度に胸を高鳴らせていた。そして一年ほど前に偶然路上で見かけたときは、存在に気付かれたくなくて必死に身を隠した。

「ラインハルトじゃないか? 懐かしいな」

 ぱっと表情を明るくして身を乗り出してくるオスカルの前で、ラインハルトは今すぐ消えてなくなりたいと思った。