Chapter 3|第45話

「何だ、君たち知り合いなのか。これは驚いた偶然もあるものだな」

 わざとらしく驚いた声を上げるハウスドルフ氏の言葉は、ラインハルトの耳を素通りするだけだった。一度上を向いてしまった顔を、いまさらうつむけて気づかなかった振りすることも難しい。だが、硬直した表情でじっと見上げてくるラインハルトに向かってオスカルは、かつてと変わらない親しげな笑顔を見せた。

「小学校の同級生なんです。ずっと仲良くしていたんですが、俺がスイスに行ってからはそれっきりになっていて。いや、本当にまさかこんなところで会えるなんて、懐かしいな」

 それはラインハルトにとってはある意味夢見た光景だった。理想通りに麗しく成長した幼い日の恋人と再会し、彼が自分に優しく笑いかける場面。成長して容姿が変わってしまったことなど一切気にせず、オスカルは何もかもラインハルトの考えすぎだったのだと笑い飛ばしてくれる。そんな未来を何度思い描いただろう。

 目の前の現実をどう受け止めれば良いのかわからず固まったままでいるラインハルトに、オスカルは訊ねる。

「でも、どうしたんだ? こんなところで会うなんて。まさかミュラー先生に何か相談でも?」

「ええと、その……」

 何か答えなければいけないと思うが、舌がもつれて上手く言葉がでてこない。第一、今自分がここにいる理由はあまりに入り組んでいて一言二言で伝えることなど不可能だ。不自然に黙り込むラインハルトの代わりにその場を取り繕ったのは、ミュラー弁護士だった。

「こちらのハウスドルフさんが、ちょっとした事情で彼にお世話になっていてね。今日はちょっとした情報交換と打ち合わせで来てもらったんだ。だが、もう話は終わったよ。ヘンスくん、例の件は返事は急がないから、ゆっくり考えてくれたまえ」

「え、ええ」

 オスカルの前で込み入った話をすることを避けて、ミュラー弁護士はさりげなく話を打ち切った。とりあえずルーカスの養子云々についてはいったんラインハルトが引き取り、回答を後日に延ばす格好だ。できれば厄介な話はこの場で片付けてしまいたいところだがラインハルトとてこの状況で話を続ける勇気はない。

 沈黙を了解と受け取ったようで、まずはハウスドルフ氏が立ち上がり、今日の面会の礼を告げるとそそくさと出て行く。ほとんど同時にあの無愛想な受付嬢が、電話がかかっているとミュラー氏を呼びに来たので、結局その場にはラインハルトとオスカルだけが取り残された。

「じゃあ、俺もこれで」

 ラインハルトはそそくさと立ち上がる。

 何度も思い描いた再会は、実際に訪れてみればあっけない。ひたすら恐怖したように、オスカルが変わり果てたラインハルトの容姿に落胆を示すことはなかった。だからといって情熱的な恋の続きをうかがわせる態度をとるわけでもない。そこにあるのはただの懐かしさだけ。そしてラインハルト自身も、大人になったオスカルにかつて恋い焦がれた黒い目で見つめられているにも関わらず不思議なほど心は静まったままだった。

 だが、オスカルは立ち去ろうとするラインハルトを笑顔で誘った。

「なあ、俺、今日はこれで上がりなんだ。おまえも時間があるなら、そこのパブで一杯飲んでいかないか? せっかくの再会じゃないか」

「え、あ。俺はこれから用事が……」

「まあいいじゃないか。一杯だけだって、三十分だよ」

 用事があるというのは嘘だ。ただラインハルトは一刻も早くここを離れたかった。突然持ちかけられた養子の話に混乱しているところにオスカルが現れた。いろいろなことが一度に起こりすぎて、頭の整理のためにひとりになってゆっくり考えたかった。

 それに、オスカルについてはもう十分だ。こうして実際に顔を見て、ラインハルトは自分の中でのオスカルへの恋愛が終わっていることを知った。彼の姿や相変わらず聡明そのものといっていい物腰は素晴らしく魅力的ではあるが、今目の前に立っているのは恋い焦がれた十四歳の少年ではなく見知らぬ男だった。そして、その男はもはやラインハルトにとって胸をときめかせる対象ではない。

 オスカルは失望の様子を見せず、成長したラインハルトにも親しく笑いかけてくれた。それだけでもういい。この穏やかな再会のおかげで長い間引きずった初恋をようやく葬ることができる、そんな気がした。

 だがオスカルは少年時代と変わらぬ強引さで「一杯だけだって」と腕を引くと、ラインハルトを通り沿いのパブに連れ込んでしまう。せっかく嬉しそうに声をかけてくるのにあまりつれなくすることもできず、ラインハルトは「じゃあ、一杯だけ」と釘を刺してから、オスカルと並んで隅のテーブルに腰掛けた。

 頼んだ黒ビールのジョッキを受け取ると、オスカルは嬉しそうにつぶやく。

「これがさ、スイスじゃあんまりお目にかかれないんだよ。美味いのにな」

 とりあえず同じものを注文したラインハルトは曖昧にうなずくが、飲酒の習慣のない人間に黒ビールの美味さが理解できるわけでもない。乾杯をして一口含むと、黒パンを食べたときのような甘い発酵臭が口いっぱいに広がり、飲み込むとずしりと胃が重くなる感じがした。

「しかし、まさかあんな場所でおまえと会うとは、びっくりしたよ」

「そうだな。こっちも驚いた。まさか……ウィーンにいるなんて」

 何か話さなければいけない。でも、あまり踏み込んだことは言いたくない。オスカルが懐かしい「友人」の顔をしてやりすごしてくれるならば、今のラインハルトはそれに応じるだけだ。何年間もオスカルを思って眠れない夜を過ごしたことも、お揃いで買った安っぽい十字架の首飾りを捨てられないままでいることも、一年前にオスカルを路上で見かけて具合を悪くするほど動揺したことも。

 何を口にしてもやぶ蛇になるかもしれない、そんな思いを抱えたまま絞り出した言葉にオスカルは笑いながらジョッキをあおる。

「毎年夏場は長めに帰ってくるんだ。なんせもう十年もスイスにいるから、定期的にこっちで学び直さないとスイス訛りが骨まで染みついて家族に白い目で見られる。本当は大学もウィーンに戻るか悩んだんだけど、向こうにいい教授がいてね。ラインハルトは、今は何をしているんだ?」

「えっと、小学校で用務員を」

 答える声は消え去りそうに小さい。大学院で法学を学び前途洋々であるオスカルと、汚れ仕事や雑用に追われて日が暮れる自分。もちろん十歳の時点で賢いオスカルと平凡な自分との進路は分かれていて、こうなる将来などお互いにわかっていたはずだ。だがそれでも、いざこうしてはっきり立場の差を口に出すことには気恥ずかしさを覚えた。

 だがオスカルは特に失望や哀れみをにじませるわけでもなく、「そうか」とうなずくと、あっという間に空けたジョッキのお代わりを頼んだ。普段酒を飲まないラインハルトからしても明らかに速いとわかるペースに、すでに「一杯だけ」の約束はなし崩しになりつつあるようだった。

「えらいな。俺が親のすねをかじって大学でぶらぶらしている間に、おまえは働いて自立してるんだな。尊敬するよ」

 オスカルの大きな手が伸ばされ、ラインハルトの髪をぐしゃぐしゃとかき回す。初恋が終わっていることを自覚したとはいえ、こんな風に触れられればさすがに少しだけ胸が高鳴った。もしかしたら、オスカルが声をかけてきた理由は。絶対にそんなことはありえないが、もしも万が一オスカルが今も――。

「で、どうだ? 嫁さんはいるのか?」

「えっ?」

 屈託のない笑顔を見せるオスカルに、ラインハルトはかっと顔に血が熱くなるのを感じた。酒のせいなのかもしれないが、一瞬とはいえあまりに愚かなことを考えた自分が恥ずかしくてたまらなくなる。

 結婚なんて、あの頃のことをちゃんと覚えているならば決して口に出さないであろう台詞。それを口にするオスカルに少しだけ失望した。やっぱり来るべきじゃなかった。あそこで笑って挨拶をしてそれでおしまいにすべきだった。そうすればこんな言葉聞かずにすんだ。

 この一杯を飲み干せば約束を果たしたことになる。ここを立ち去ることができる。震える手で黒ビールをのどに流し込もうとするラインハルトに向かって、しかしオスカルは笑いながら続ける。

「だって、もう安定した仕事もあって、そんな男前に育って、引く手あまただろう。それにしても変わるもんだよな。あの頃のおまえは小さくて細くて、女みたいにかわいいもんだから、うっかり変な気を起こしそうになったけど、まさかこんなにでかくなるなんてな」

 気を抜いたところで、頭上から石を落とされたような気分。ラインハルトは、鉛のように重いジョッキを取り落とさないよう堪えるだけで精一杯だった。