恥ずかしさ、惨めさ、いたたまれなさ。一気に押し寄せてきたネガティブな感情をどうにかやり過ごそうと、ラインハルトはぐっと奥歯を噛み締めた。
やっぱりここについてくるべきではなかった。いくらオスカルが親しげに笑いかけてきたからって、いくらあの瞬間は自分にとってオスカルとのことが完全な過去になったと思えたからといって、やはりラインハルトの判断は間違っていたのだ。
血が乾き塞がったように思えても、この傷はいともたやすく口を開ける。オスカルが過去を過去としてただ懐かしく語ろうとしているからこそ、その唇から悪気のかけらもなくこぼれ出る言葉はあまりに残酷だ。
ほんの短い間だったとはいえ、ラインハルトにとっては大切な初恋だった。子どもっぽい思い込みだとはいえ、一度はあれこそが真実の愛で、永遠の愛だと信じたのだ。だが、オスカルはそれをいとも軽く「気の迷い」で片付けてしまう。手が届く近さに女の子のように愛らしい外見をした少年がいたからうっかり変な気を起こしそうになった。それだけのこと。そしてオスカルがこうも無神経な言葉を吐けるのはきっと、ラインハルトの気持ちすら彼と同じ「気の迷い」だったと疑っていないからなのだろう。
「せ、成長期が遅れてきたみたいで、あれから急に背が伸びたんだ。驚いただろ?」
「驚いたよ。髪の色も変わったし、ああいう場所でしっかり顔を見たから気づいたけど、道ばたですれ違ったくらいじゃ、これがあのラインハルトだなんて気づかなかっただろうな」
あっけらかんと告げられる言葉の、ひとつひとつが胸をえぐる。
「だろうな、自分でも同じ人間だって信じられないくらいだ」
それでも傷ついた顔を見せてはいけないという程度の矜持はラインハルトにも残っていた。必死で笑顔を作り、自らの外見の変化など一切気にしていないかのように軽い調子でオスカルに相づちを打った。
「お互い子どもだったからな」と、懐かしそうな表情でオスカルは言う。
「だから変な盛り上がり方しちゃって。今思えば、あのときおまえの親父さんや俺の親が無理矢理に引き離してくれて良かったよ。そうじゃなきゃもしかしたらやばいことになってたかもしれないしな。本当、色気付きはじめたガキってどうしようもないよな。スイスに行ってしばらく経ったらけろっと目が覚めたよ」
「……ああ」
ラインハルトは自分の声が震えていることに気付かない程度にオスカルが酔っていてくれることを祈った。
会いたくて苦しくて眠れなかった。連絡をとりたくてしかたないのに、一方で彼に変わりゆく自分の姿をさらすことが怖かった。愛情を失うことが怖かった。オスカルは元気だろうか、まだ連絡を待っていてくれるだろうか、今から便りを出せば間に合うだろうか。ラインハルトがそう思い悩んでいる間にオスカルは正気に戻ってスイスでの新しい生活に順応していたというのだ。
むしろあの恋愛をオスカルが恥じて後悔しているのならばまだましだったかもしれない。でもオスカルは悔やんですらいない。あの日々を、ラインハルトが胸の中で大切にしていた思い出を、いとも軽いものとして笑い飛ばすだけだ。
やはり自分には何もなかった。たった一度だけでも誰かに思われて愛されたという思い出、それすら現実ではなかった。信仰を裏切り、誰より尊敬していた父親を裏切り、結果何ひとつ手に入れることはできなかった。ラインハルトはその事実を認めるしかない。
仕事を終えた人が続々と流れ込んできて、パブは明るく賑やかな雰囲気に満ちている。なのにラインハルトは喧騒の中で今、生きてきて一番ともいえる孤独を味わっている。最初から何もなくて、これからも何もない。オスカルにとって自分はただの気まぐれで、過ちで、笑い話。それがラインハルトという人間の価値なのだ。
だからきっと――ルーカスも――あの粗末な部屋を「秘密基地」と嬉しそうに呼ぶ生活のことなどすぐに忘れてしまうのだろう。いや、それどころかすでに彼はラインハルトの手の届かない場所へ向かいはじめているのかもしれない。例えばあの晩思い浮かべていたであろう、誰か知らない女の子と一緒に過ごす未来。もうルーカスは出会った頃のような子どもではない。
「オスカル、あのさ、覚えている?」
ラインハルトがゆっくり口を開くと、オスカルは「何を?」と聞き返す。
「お揃いでさ、十字架を買ったこと」
なぜそんなことを話す気になったのかはわからない。自虐的な気持ちゆえなのか、それともまだ何かにすがりたかったのだろうか。そして当然オスカルは無邪気に笑う。
「そんなこと、あったっけ? 荷物はほとんど置いたままでスイスに行ったし、覚えてないな」
もう沢山だ。ラインハルトはジョッキ三分の一ほど残っていたビールを一気に飲み干す。今すぐここを去らなければ、心まで壊れてしまいそうだ。
でも、家に帰ればルーカスがいる。ルーカスの顔を見ればまた苦しくなる。ルーカスを手元に置き続けたい気持ちと、共同生活を続けることでいつか自分が彼に欲望を抱いてしまうかもしれないことへの恐怖。どこへ行こう。頭が冷えるまで、公園かどこかで時間を潰すか。
「なんだよ、もう帰るのか? もう一杯だけ付き合えよ」
すでに三杯目のジョッキを手にしたオスカルのろれつが怪しくなっている。伸ばされた手をやんわりと払い、ラインハルトは悲しく笑う。
「一杯だけって約束だっただろう。用事があるんだ、もう帰るよ。今日は会えて良かった」
もちろんそんなこと微塵も思っていない。知りたくないことを知った。こんなことなら一生会わずに、勝手な幻想だけ抱いて生きて行った方がましだった。立ち上がったラインハルトに、オスカルが思い出したように問う。
「そういえば今日のあのおっさんが世話になってるって、何の話なんだ?」
今の自分自身についてオスカルに話す義理などない。それでもラインハルトが口を滑らせたのは、面倒をみなければいけない同居人の存在が今すぐここを離れる理由になるかもしれないと思ったからだ。
「彼の親戚の男の子を預かってるんだ。両親を亡くして、行き場所がないからって」
「子ども? 冗談言うなよ、おまえ独り身だろう?」
オスカルはラインハルトがふざけていると思ったようだ。もちろん若い男が少年を預かることが、冗談を疑う程度には非常識であることをラインハルトも知っている。疑われれば信じて欲しくて、つい言葉を足してしまう。
「うちが彼の学校に近いから、下宿みたいなもんだよ」
「でも、そんなこと、あの鬼みたいな親父さんが聞いたら……」
そこではっとしたように、オスカルの顔色が変わる。ラインハルトは自分が余計なことを言ったのだと自覚した。
かつて少年時代に恋愛感情を告白してきた男が今、うら若い少年を家に置いている。それを知ったときオスカルがどのような想像をするか、頭を巡らし警戒すべきだった。
「ラインハルト、おまえ、まさか……」
オスカルが眉をひそめてラインハルトに怪訝な視線を見せる。さっきまでの懐かしく親しい感情がみるみる彼の顔から消え去ってゆく。今のオスカルの目は、父がラインハルトを見るときの目と同じ。汚れたものを、邪悪なものを見るときの目だった。