そこから先の記憶はあいまいだ。オスカルからも、自分が少年趣味の異常性愛者だと認識された。そのショックはあまりに大きくて、ラインハルトはその誤解を説くことに必死になった。
ルーカスがレーベンスボルンでナチの庇護を受けて育ったこと以外は、ほとんど何もかもを話した。彼がもともと孤児であっただけでなく事故で養親を亡くした悲惨な過去を持つこと。亡くなったハウスドルフ夫妻とは教会を通じて家族ぐるみのつきあいがあったこと。だが、自分がルーカスを預かっているのはただただ善意によるものだと熱心に話せば話すほど言葉は空回りし自分自身でも本当の気持ちがわからなくなった。
「だから、別に心配されるようなことはなにもないんだ」
言い訳じみた言葉を必死にまくしたてたラインハルトに、オスカルはひとまず笑顔を見せる。
「おまえの言っていることは、わかったよ。別に変なことを疑っているわけじゃない、そう気を悪くしないでくれよ」
だが、妙によそよそしくなったオスカルが、まだ三杯目のジョッキには半分近くビールが残っているにも関わらず「じゃあ、そろそろ」と席を立つ不自然さにも、店の前で別れる瞬間までその目が冷たいままであったことにも、ラインハルトはもちろん気づいていた。
アルコールのせいか、口に合わない黒ビールのせいか、気分が悪い。繁華街の人混みが辛くて、だからといってトラムに乗ればもっと酔いが回りそうな気がして、ラインハルトはぼんやりと自宅へ向けて歩きはじめる。
月は薄雲に覆われている。暗い道を歩くうちに人影はすっかり少なくなる。途切れ途切れの街灯を頼りにとぼとぼと歩くうちに、頭の中にあったぼんやりとした不安は大きくなってきた。
今日までラインハルトは、少なくともルーカスを引き取った時点では自分の気持ちによこしまなものはなかったのだと信じていた。だが、考えを巡らせるうちに、そんな自信すら揺らいでくる。ルーカスを養子にとらないかと言われたとき、一瞬でも喜びに襲われたのはなぜなのか。オスカルに再会したときに不思議なほど気持ちが凪いでいたのはなぜなのか。
ここ最近ラインハルトが恐れていたのは、いつか自分が足を踏みはじめて、ルーカスに特別な感情を抱くようになること。欲望を感じるようになること。でもきっと――もう手遅れだ。足なんて、とっくの昔に踏み外している。薄い板を踏み抜いて、いつしかラインハルトは地獄に身を置いていた。ただ、その現実から目をそらしていただけ。
自分はルーカスに惹かれている。いつからかはわからないけれど、ルーカスを手放したくないと、誰にも渡したくないと、ずっとあの部屋でふたりだけの日々を続けていきたいと強く思っている。哀れな子どもを守るのが大人の責任。そんな綺麗事で自分自身をごまかして、本当はずっとルーカスを自分のものにしたいと思っていた。
例えばクララの気配を感じたルーカスが嫉妬に似た態度を見せたとき、内心で喜んではいなかったか。他の誰からも見捨てられたルーカスを自分だけが理解しているのだと、他の誰からも求められない自分のことをルーカスだけは必要としてくれるのだと思い込んではいなかったか。
気づいていなかっただけで、もうずっと前からはひどい罪を犯してきた。見せかけの善意で何も知らない孤独な少年を囲い込み、自分に依存させて。そして、その先に何を望んでいた?
胃が気持ち悪い。酒のせいか、オスカルとの惨めな再会のせいなのか、自分のどうしようもない罪に気づいたからなのか。きっとそのすべてのせいなのだろう。ラインハルトはよろめきながら休み休み歩いた。ゆっくりではあったが、かなり長い時間歩いていたに違いない。ふと顔を上げれば周囲は見慣れた自宅近所の風景で、天上の月はさっき見たときからは場所を変えていた。
水が飲みたい。水を飲んで胃の中のものをすべて吐いてしまいたい。そうすれば少しはすっきりするだろう。そうだ、久しぶりにあれをやりたい。薬剤の強い匂いに包まれて髪を脱色すればこの苦しみからいくらかでも逃げられるかもしれない。強い衝動にかき立てられ頭の中は自宅のバスルームのことでいっぱいになる。
一秒でも早くあそこへ戻って、精神の安定を取り戻す儀式をやらなきゃ。取り憑かれたようにそのことだけを考え歩き続けるが、自宅アパートメントまであと一ブロックというところでそれ以上進めなくなる。
家には、ルーカスがいる。ルーカスへの歪んだ感情――許されないある種の愛情に気づいてしまった今、どんな顔でルーカスの前に立てばいい。
足がすくんで、ラインハルトは歩道の隅にへたり込む。どこにも行けない。実家から逃げ出してあそこだけが自分の居場所、安全な場所だと思っていたのに、いまではあの部屋に戻ることが何よりも怖い。
ルーカスを引き取るんじゃなかった。あの日、父の電話なんか無視するべきだった。そうすればルーカスに会わずに済んだ。何もかもを捨て去ったつもりで、まだ心の奥底に残っていた浅ましい感情に気づくこともなかった。消えてなくなりたい。強い後悔と情けなさに、目の奥がじわりと熱くなった。そのときだった。
「……ラインハルト?」
その声が誰かは知っている。今一番会いたくない相手。でも本当は、今一番会いたい相手。いつの間にか声変わりが終わって、すっかり低く落ち着いた声で、ルーカスはラインハルトの名前を呼ぶ。
「危ないから、夜中に出歩くなっていつも言ってるだろう」
顔を上げずにそう吐き捨てると、近づいてきたルーカスの足音はすぐ目の前までやって来て止まる。
「こんなところで夜中に座り込んでる方がよっぽど危ないだろ。あんまりに遅いから心配になったんだ。もう日付が変わったよ」
「別に、俺だって夜中まで飲み歩くことくらいあるさ。おまえと違って大人なんだから、自分で自分の責任くらい取れる」
肩に手が触れる。壊れ物に触れるようにそっと。
「どうしたの、様子がおかしい。そんなに酔っ払うなんて普通じゃないよ。どこに行っていたの? 何をやってたの?」
優しい声。いたわる声。情に満ちた声。ルーカスの優しさが今は何よりも辛い。
「うるさいな、関係ないだろ」
ラインハルトはルーカスの手を弱々しく振り払う。しかしあきらめないルーカスは今度はラインハルトの手をつかみ、引っ張って起こそうとする。
「離せよ」
「離すよ、家に着いたら」
力が入らない体を引きずり起こされ、ルーカスはラインハルトの歩行を助けようと肩に腕を回す。その肩のたくましさ、腕の頼もしさを感じながらラインハルトはもう、自分の罪深さを認めるしかなかった。
「ねえ、帰ろうよ、ラインハルト」
うなずくことはできないが、支えられて家への道を一歩踏み出す。
――どうしよう。
もう目をそらすことなどできない。自分は七つも年下の、弟のように、子どものように見守ってきたはずのこの少年にいつしか惹かれ、彼を愛しはじめていた。