家までの短い道のりを黙ったまま歩いた。その間ずっとルーカスがふらつく体を支えてくれたが、そのせいでむしろラインハルトの脚は震えてもつれがちになった。自分がみっともない姿をしていることはわかっているから、月に雲がかかっている暗い夜であることに感謝した。
ぴったりと寄り添ってくるのは少年と青年の中間の体。頭半分だけ低い場所でさらさらと揺れる金色の髪。今はまだラインハルトの方が背も高いし、体格も勝る。それでも日々厚みを増すルーカスの体は、触れれば見た目以上にたくましく力強い。意識してしまえば何もかもがラインハルトの心を乱す。触れた場所から速さを増す心音が伝わらないことを祈るだけだった。まあ、伝わったところでどうせルーカスはラインハルトの内心になど気づきはしないに決まっているのだが。
ゆっくりと階段を昇り部屋に入ると、ルーカスはよろめくラインハルトをソファに座らせようとした。ルーカスが毎晩ベッドとして使っているソファは、自慰の現場に気づいてしまったあの晩からラインハルトにとっては別の意味を持つようになった。普段は触れることすらためらうくらいだが、今はルーカスから離れられるのならばこのソファに座る方がよっぽどましに思える。
「大丈夫? 待ってて、水を汲んでくるから」
背もたれに体を預けたラインハルトが大きくひとつ息を吐くと、それを気分が悪いせいだと思ったのかルーカスは慌てたようにキッチンへ向かった。
「いらない」と、ラインハルトは差し出されたコップを断る。喉は渇いている。でも今は、ルーカスから手渡されるものは何ひとつ受け取りたくない気分だった。
「駄目だよ、飲まなきゃ。顔色が悪い」
再度勧められ、今度は言葉もなく首だけを左右に振る。ルーカスは困惑をごまかすように空いている左手で耳のあたりに触れた。そのままあきらめてくれることを期待したが、しばし逡巡の様子を見せてからルーカスは思い切ったように再び口を開く。
「ラインハルト、今日どこへ行っていたの? 何があったの?」
水を勧めてくるよりよっぽど悪い。ラインハルトはソファの背に手をついて何とか立ち上がると、ルーカスに背を向けた。
「関係ないだろ。もう寝る」
「……どうして僕には何も話してくれないんだよ」
しかしルーカスはラインハルトの正面に回り込み、あからさまな不満を訴える。しかもこの目は本気の、思い詰めたときの目だ。
「もう遅い、学校あるんだからおまえも寝ろ」
そんな言葉で納得してくれるはずなどないとわかっていたが、それでもラインハルトは他に方法を持たなかった。立ちふさがろうとするルーカスを無視して寝室に向かおうとすると、今度は強く腕を引かれた。
「僕が子どもだから?」
瞳にも声にも、強い苛立ちともどかしさがにじんでいる。
子どもだからじゃない。ルーカスをただの居候の子どもとして見ることができない自分自身に気づいてしまったことが、ラインハルトの新たな苦しみなのだ。ルーカスはそんなこと露ほども知らないし、もちろん告げることもできない。
「おやすみ」
感情的にならないようラインハルトはできるだけ落ち着いた声を出し、穏やかな仕草でルーカスの手を解こうとした。だが、ルーカスはますます腕をつかんでくる力を強くするだけだった。
「ごまかさないでよ。一緒に暮らしてるんだ、真っ青な顔して真夜中に路上でへたり込んでるの見て心配するくらい普通だろう。確かに一方的にあんたの世話になってるのは確かだけど、いつだってあんたは僕を子ども扱いして、大切なことは何も話してくれない」
「ルーカス、離せってば」
ラインハルトは振りほどく動きを激しくしたが、ルーカスはびくともしない。
去年、髪を黒く染めて帰ったルーカスをバスルームまで引きずって行ったのはラインハルトだった。あの頃まではまだ大人と子どもの圧倒的な腕力の差があったように記憶しているが、いつの間にかルーカスは見た目だけでなく体力までも大人のものに近づきつつある。ルーカスはラインハルトの腕を引きながら、一歩踏み出す。ふたりの顔がグッと近づいた。
「いつもそうだ。そうやって怒ったふりをすれば、僕があきらめると思ってる。そりゃそうだよ、あんたの機嫌を損ねたらここから追い出されるかもしれないんだから。でも、だからってずるいよ。そういう風にされたら、僕は何も言えないままだし聞けないままだ。そういうのって……」
「触るな! 手を離せって」
思ったより大きな声が出た。真夜中にうるさいと言いたいのだろう、同時に上階の住人が床を強く叩いたようで、天井がドンと大きな音を立てた。その音に驚いたルーカスが思わず手を離したのはラインハルトにとっては幸いだった。再び腕を取られないようさっと後ずさりする。
ルーカスは手を伸ばす代わりにうなだれた。
「……どうして、そんな風に拒むんだよ」
さっきまでの強い態度が嘘のように、叱られた犬のようにしゅんと視線を床に向ける。近隣に気を遣ってか、声も囁くように小さい。
また一方的なわがままでルーカスを傷つけた。ラインハルトの胸の奥はちりちりと痛む。でも、一方でこうすることが正しいのだとも思う。今はルーカスから何ひとつ受け取りたくない。助け起こそうとする手も、水の入ったコップも、優しい言葉も、何ひとつだ。
「勘違いするな、俺だっておまえくらいの年頃のときは、自分がもう一人前の大人だと思って、妙な自信を持ってた。でも今思えば、そんなふうに考えること自体が子どもの思考そのものだった」
勘違いしているのはルーカスでなく、自分だ。ただ他に屋根を貸してくれる人がいないからというだけの理由でここにいるルーカスがラインハルトに感じているのは、ただの恩義にすぎない。実際さっきも、ラインハルトの機嫌を損ねてここから追い出されることが怖いとはっきり言った。
この優しさも、親密さも、何もかもは利害に基づくもの。わかっているのにうっかり期待しそうになる、そんな自分が怖いのだ。
ルーカスは、ラインハルトの攻撃的な物言いに完全にひるんだわけではなかった。むしろぎゅっと唇を噛んで、しかし顔を上げると挑戦的な眼差しでラインハルトを見つめた。
「つまり、僕が子どもだって言いたいの?」
その先までも言いたかったわけではない。だが、促されれば口にしないわけにはいかない。
「ああ、思い上がるな。俺はおまえに頼るつもりもなければそんな必要もない。一切だ」
売り言葉に買い言葉。しかしその言葉がルーカスの心を深くえぐったのは確実だった。
「ラインハルト……」
小さくつぶやいたきり今度こそ言葉を失ったルーカスに、ラインハルトは完全に背中を向けた。
「わかったら寝ろ。もう遅いだろう」
寝室の扉を閉めると体から力が抜ける。戸板に預けた背中がずるずると滑りそのままラインハルトは床に座り込む。精一杯の虚勢を張った反動だ。指の一本も動かせないくらいに疲れ果てた気がした。
本当は嬉しかった。探しにきてくれたことも、心配してくれたことも。でもそんなことは口が裂けたって言えない。ルーカスに抱いている邪な気持ちを自覚してしまったからこそ、もう二度とルーカスの優しさを素直に喜ぶことなどできない。
これ以上ルーカスに懐かれるのも優しくされるのも、ただ辛いだけだ。勘違いしたくないのに、希望を捨てられなくなる。そして汚れた欲望が膨れ上がったその先には、きっと破滅しかない。