もう二度と恋に落ちたりはしないと思っていた。
永遠のものだと思っていた初恋はあっけなく終わり、残されたのは虚しさと醜く成長した体だけだった。自分だけが特別なわけではない。この世にはきっと性癖と折り合いをつけて生きていく同性愛者だって、失くした恋をあきらめて他の誰かと現実的な生活を築く人だって多くいる――いやむしろそっちの方が多数派なのかもしれない。でもラインハルトにはそんな選択をするだけの柔軟さもない。だから、ひとりで生きていくのは自業自得の、仕方ないことなのだと思っていた。今も。そのつもりだった。
ローティーンの少年がほんのわずかな間に大きく育ち大人になることなんて、知っていた。いや、本当は知らなかった。ラインハルト自身がオスカルへの恋心を引きずったまま、大切な友人たちを失ったときのまま、いつまでも少年時代の自分から抜け出すことができなかったから。だからルーカスだっていつまでも親を求める孤独な少年のままで、自分はそんな彼に哀れみと同情と、ちょっとした嫉妬心を抱いて生きていくのだと思い込んでいた。そんなことあるはずないのに。
滑稽だ。一時の気の迷いで愛の言葉を囁いていたオスカルにのぼせ上がって、そんなものを永遠の愛だと後生大事に心に温めていたこと以上に滑稽であるに違いない。自分より七つも年下で、頭半分も背が小さい居候の少年に胸を焦がすなんて。できるならば彼に愛されたいと、庇護すべき対象と見なされ大切にされたいと願うなんて。
昨日ルーカスの法定後見人であるハウスドルフ氏は、ラインハルトにルーカスを養子に取らないかと言った。何も言わず本心を隠して、心底の善意のふりをしてその申し出に乗ることも不可能ではない。その考えはまるで甘い毒のようにラインハルトを誘う。彼を法的に自分の息子にしてしまえば一生離れることはない。ずっとルーカスをそばに置いていられる。でもきっと、離れられないからこそ、見たくないものだって目にすることになる。そんな想像すらできないほどにはラインハルトも現実を見失ってはいなかった。
ルーカスは成長する。彼の世界はどんどん広がる。彼が生い立ちに恵まれないことや、ナチの庇護を受けた子どもであることを気にしない人間だって、きっといくらだっている。そう遠くない未来、彼にふさわしい美しい少女と恋に落ちるだろう。年頃になれば結婚相手を紹介したいと連れてくるかもしれない。そのとき自分はどんな顔でルーカスと、その隣で微笑んでいるであろう誰かに向かい合うのだろう。
だって、一緒にいればきっとあきらめることも忘れることもできない。これからどんどんたくましさを増し大人の男になっていくルーカスに、惹かれ続ける以外にないのだろうから。
断らなければ、と思った。養子の話なんて馬鹿げている。すぐにでもハウスドルフ氏か、ミュラー弁護士に連絡を取って断らなければいけない。そしてできるだけルーカスとは距離をおいて接して、彼がギムナジウムを卒業すると同時に縁を切る。それしかない。想像するだけでも胸が苦しくなるが、それでも本当に辛い場面――ルーカスが他の誰かと結ばれるところを見守ることと比べればまだましだと思えた。
翌日の勤務時間が終わるとすぐに荷物を手にした。こんなに急いで学校を後にしようとするのはラインハルトにとっては珍しいことだが、ミュラー弁護士のところに行って、養子の件に断りをいれなければいけない。もしかしたらあそこにはオスカルがいるかもしれなくて、昨日の今日で彼と顔を合わせることは気まずいが、目の前で毅然と養子の話を断れば、オスカルの誤解も解けるかもしれない。
ほとんど殴り書きの日報を決められた場所に提出し、職員室を後にしようとしたときだった。教務主任の男が声をかけてきた。
「ヘンスくん、ちょっといいかい?」
形式的な挨拶以外にラインハルトに声をかけてくるのは珍しい。妙にかしこまった調子が気になったが、ラインハルトを採用したのも毎年度末に雇用の継続を決めるのも彼だ。妙な態度を取るわけにもいかず、ラインハルトは立ち止まった。
「……はい」
何か仕事にミスがあっただろうか。今日は上の空だったから、取り替えた電球が緩んでいたかもしれない。鍵をかけ忘れた場所があったかもしれない。掃除が行き届いていなかったかもしれない。でも、それ以上大きな失態は思い浮かばなかった。
打ち合わせ用の小部屋にラインハルトを招き入れると、教務主任は向かい合わせのソファに腰掛け胸ポケットから取り出した煙草に火をつけた。缶をこちらに向けてこちらにも一本勧めてくるが、喫煙の習慣のないラインハルトは礼だけ言って断る。
本当はすぐにでもミュラー弁護士の事務所へ走って行きたいところ、教務主任がゆっくりと煙草をくゆらせているのは不愉快だった。
「あの、何か話が……」
我慢できずラインハルトが切り出すと、男はひとつ煙を吐いてから口を開いた。
「ヘンスくん。君は物静かで真面目で、頼まれたことを誠実にこなしていつも一生懸命仕事に取り組んでくれていることを知っている。ここで働きはじめてからずいぶん経つが、目だったトラブルも苦情もない」
妙な切り出し方には嫌な予感がした。問題がないのならば彼がラインハルトを呼び出す必要などないだろう。人があえてこんな風に波風立てない物言いをするときは、たいていの場合その後に悪い話をするものだ。
「だから別に、私や学校としては君には感謝しかないし、君をどうこう思っているわけではないんだ。だが、世の中にはいろんな人がいて特に学校というのは小さな子どもを預かる場所だから」
回りくどい言葉の意味がわからず、ラインハルトは困惑しながら続きを促した。
「あの、何かおっしゃりたいことがあるなら……」
男は大きなため息を吐く。そこでラインハルトは自分が感じた嫌な予感が気のせいでも何でもない事実なのだと確信した。
「ヘンスくん、昼に学校に電話があって……君をよく知っているという人からだ。その人が言うには」
ごほん、とひとつ咳払いをしてから教務主任は思い切ったように口を開く。
「君がその、少年が好き――いわゆる普通の子ども好きとかそういう意味ではなく、年の若い少年に対して性的欲求を抱くような、そういう性癖を持っているというのは事実かね?」