「……は?」
その質問を耳にした瞬間、頭が真っ白になった。平穏な生活を続けるために、これ以上傷つかないですむように隠してきたこと、誰にも気づかれないよう細心の注意を払ってきたラインハルトの秘密は、いともたやすく白日の下にさらされた。
「そ、そんな話一体誰が。誤解です」
思わず身を乗り出して言い返した声は、自分でも意外なほど大きく激しかった。
もちろん何もかもが嘘だというわけではない。自分が同性愛者であることは事実だが、それを人前で認めることが何を意味するのかはわかっている。それになにより、まるでこの学校に通う子どもたちにすら不埒な欲望を抱く性犯罪者であるかのように勘違いされるのは、不本意この上ないことだった。
普段おとなしいラインハルトの激しい剣幕に気圧されたように、教務主任は少し身を反らせ、慌てたように猫なで声を出した。
「いや、ヘンスくん、そんなに怒らないでくれよ。もちろん私たちだってそんな電話を頭から信じているわけではないんだ。だからこそ、こうして君に直接話を聞こうとしているんじゃないか」
「電話……?」
そう、この教務主任の男だって、何もない場所からラインハルトの性癖を妄想したわけではない。誰かが彼にラインハルトについての良からぬ話を吹き込んだのだ。
心当たりがあるならば、たったひとり。オスカルだ。彼は昨日交わした会話の中で、ラインハルトが今も同性のしかも年若い少年を欲望の対象としているのだと疑った。あんなにも必死にまくしたてた弁解の言葉はきっとオスカルの心には響かなかったのだろう。
屈託なく笑いパブに誘ってきたことから考えて、オスカルはラインハルトにはなから悪意を持っていたわけではない。ただ、きっと彼は大きな考え違いをしていたのだ。オスカルは彼が認識しているのと同様に十四歳の淡い恋はラインハルトにとってもただの勘違いで幼い過ちだったのだと。そして酒の席の軽い話題にすることで、あの頃のことをただの愚かな少年時代の思い出として完全に昇華できるのだと期待してラインハルトを誘ったのだ。
でも、オスカルの思惑は裏切られた。もしかしたらオスカルが幼い初恋を笑い飛ばしたときに、ラインハルトが傷ついた表情を浮かべたことにも気づかれていたのかもしれない。たとえそうでなかったとしても、結婚もせずミドルティーンの少年を家に置いていると聞いた時点で、オスカルにとってラインハルトはやんちゃな思い出を共有する幼なじみから、今も年若い少年に惹かれる異常者となった。
嫌悪すべき危険な小児性愛者がこともあろうか小さな少年少女たちに囲まれた環境で仕事をしていると知れば、正義感の強い法曹家の卵がどう行動するか――ミュラー弁護士に向かってオスカルが浮かべた輝く笑顔が脳裏をよぎり、ラインハルトの胸は痛んだ。
だが今は呑気に傷ついている場合ではない。今まで何とか維持してきた人並みで平穏な生活が脅かされそうになっているのだから、まずは降りかかってきた火の粉を振り払う必要がある。
「どこの誰だか知りませんが、その電話の主は誤解をしているんです。決して、決してそんなことはありません」
同性愛者であることは事実だ。でも自分は小学校の生徒たちに妙な感情を抱いたりはしない。ルーカスは、ルーカスは確かに男でまだ少年と言える年齢だが、ラインハルトが彼に惹かれているのは彼の若さとは一切関係ない。でなければたくましさを増した腕に、体に、声色にあんなに胸を締め付けられるものか。
きっぱりと疑いの言葉を否定したラインハルトだが、教務主任は納得する代わりにもごもごと言いづらそうに再び口を開いた。
「言い分はわかった。ただ電話の主は、君は少年時代から同性愛の傾向があり、それが理由で教会とも距離を置くようになったのだと言っていた。そして今も……身寄りのない少年を囲っているとか……」
背中がすっと冷たくなる。そんなことまでばれてしまっているとは。
「それは、あの」
否定しなければどんどん追い込まれるだけだ。頭ではわかっている。しかし長年自分の殻に引きこもり他人とのコミュニケーションをおろそかにしてきたツケが今まさに回ってきたようだ。
少年時代に同性を好きになったことも、それをきっかけに教会に通わなくなったことも、身寄りのない少年を家に置いていることも、それぞれの言葉だけをなぞればどれも事実で、だから瞬時には言い返す言葉が浮かんでこない。
沈黙は肯定と取られる。わかっているのに何も言えないままでいるラインハルトに向かって、初老の管理職は悩ましげにため息をついた。
「ヘンスくん、君がまじめで良い青年だということはわかっている。でも、ここは学校だ。事実であろうとあるまいと今みたいな話を聞けば児童や親御さんは不安に思うだろう。君が校内にいることで子どもたちが落ち着いて過ごせないということになれば、それはそれで我々にとっては大きな問題なんだよ」
遠回しに告げられる言葉の意味がわからないほど愚かではない。
「つまり、俺に辞めろと言うんですか?」
半ば呆然とつぶやいたラインハルトに、教務主任は首を左右に振るが、それがただのポーズに過ぎないことはあまりに明白だった。
「いや。ただ、すべての不安を打ち消すような証拠を提示してもらえさえすれば……」
求められたのは悪魔の証明。言葉でいくら説明しても理解してもらえない。だが自分がこの学校の子どもたちにとって完全に無害な存在であることなど、一体何をもって証明できると言うのだろう。
「そんな。証拠なんて、無茶ですよ」
ガタンと扉の方から物音がした。ちらりと目をやりラインハルトは、複数の人物がこの部屋でのやりとりに聞き耳を立てていることに気づいた。
すでに自分に関する良からぬ噂は、この教務主任だけでなく教職員の間に広まってしまっているのだ。扉の外の面々は一体どんな気分でここで交わされる話を聞いているのだろう。野次馬的好奇心、心配、恐怖、嫌悪。いずれにせよラインハルトはいくら上手く言い逃れたとしても、もう二度と今までのようにひっそりと平穏に、平凡な用務員としてここで仕事を続けることはできないのだ。
「……退職金はきちんと出す。できる限りで、再就職先の世話ができないかも検討する」
目の前の男が、深く頭を下げた。彼も困惑している。ラインハルトが自分の日常を守りたいのと同じように、他の教職員だって平穏な日々を守りたいに決まっている。そして残念ながら彼らにとって今一番の障壁が、ラインハルトの存在そのものであるのだろう。
これ以上粘っても傷は深くなるだけだと認めること、それが今のラインハルトにできる最善だった。
「生徒たちを混乱させるのは本意ではありませんから、ご希望通りにします。ただ、これ以上妙な噂が広まらないように配慮はお願いします。俺も……生活があるんで」
ラインハルトは振り絞るように、そう答えた。