Chapter 3|第51話

 返事を待ち構えていたかのように紙と万年筆を取り出すと、教務主任はその場で辞表を書くようラインハルトに迫った。それどころか、準備室に残したわずかばかりの私物を取りに行くときにまで、ぴったりと後ろをついてきた。

 たった一本の電話のせいで、まるで犯罪者になったかのようだと思う。一方で、何もかもはあまりに突然すぎて、ラインハルトは目の前の現実をしっかりと受け止めることができないまま、どこかふわふわとした足取りで校門をくぐった。

「最後の給与と退職金は、後日小切手で送る。困ったことがあれば何でも相談してくれて構わないが……その場合は電話をくれないか。ちょっと、校内で会うのは」

 最後にかけられた言葉は、ラインハルトがもう二度とこの学校の敷地内に入ることすら許されないのだということを意味していた。そしてもちろん、目の前の男が社交辞令を口にしているだけで、本心では二度と連絡など欲しくないと思っていることも確かな事実だった。

 ぼんやりとしたまま、いつもより多い荷物を手に家への道を歩く。昨日は初恋を失い、今日は仕事を失った。実感は少しずつ湧いてくる。決して楽な仕事ではないし、恵まれた待遇でもなかった。ただ、つつましくも独立して生活できるだけの収入が約束されているということはラインハルトにとって何より大切だった。生まれ育った家とも慣れ親しんだ教会とも距離を置き、自分の居場所は自分で作る他にない。そして、そのためには当然ながら金がいるのだ。

 片手程度の勤続年数しかない用務員に払われる退職金など知れている。今ですら生活はかつかつで貯蓄などない。いくら切り詰めたところで数ヶ月のうちに家賃すら払えなくなることは確実だろう。

 頭に浮かぶのはルーカスのことだった。あの部屋を秘密基地のようだと言ったルーカス。ラインハルトひとりであれば、最悪公園や路上で寝起きしたっていい。でも、あの部屋がもはや自分ひとりのものではなく、ルーカスにとってもかけがえない居場所である以上、どんな手を使っても家賃だけは確保しなければいけない。

 幸い自分は若く健康な男だ。選り好みしなければ、ゴミ拾いでも人夫でも何でも仕事は見つかるはずだ。小学校の仕事をクビになったことを黙っていれば、きっとルーカスにはばれない。余計な心配をかけることはなく、表面上は今までと変わらない生活を続けることができる。気持ちなら、死んだって隠し通す。

 どこかでまだ甘えていたのかもしれない。ルーカスとの距離が縮まり彼が懐くような素振りを見せてきたことに、ありもしない夢を見ていたのかもしれない。でも、もう目は覚めた。昨日と今日ラインハルトの身に起きたことこそが現実なのだ。

 同性愛者――しかも年齢の離れた少年に関心を抱くような人物だと見なされた自分が、周囲からどう見られるか。嫌悪、侮蔑、それどころか世間に危害を与える側の人間だと思われ職すら追われる。でもそれが普通の人の、当たり前の反応なのだ。だから異常な人間から愛情を向けられているとルーカスが知ったらどんな反応を見せるか、わかりきっている。

 今ならはっきりとわかるが、オスカルにもあのとき気持ちを伝えるべきではなかった。そうすればオスカルにとっては美しい友情の思い出、ラインハルトにとっては淡い初恋のほろ苦い思い出で終わったはずなのに、子どもらしい無知と無鉄砲ゆえにラインハルトは自らすべてを台無しにしてしまった。得たものは傷だけ。失ったのは、何もかも。

 いい加減学ぶべきだと思う。この気持ちに勘付かれなければ、せめてルーカスの中に自分はただの親切な大人として刻まれるだろう。父やオスカルや教務主任から向けられたような侮蔑の眼差しで見られることもない。最初からあきらめていれば、欲しがりさえしなければ、何も手に入らない代わりに失うこともないのだ。

 愛されなくてもいい。そんなことどうせあり得ない。だからせめて嫌われたくはない。失望されたくない。蔑まれたくない。そんな切実でささやかな望みだけを噛み締め、ラインハルトは自宅への階段を上った。

 玄関ドアが見えはじめた時点で、いつもとは違うことに気づいた。胸に広がるのは暗い、嫌な予感。それを裏付けるようにぴかぴかに磨かれた茶色い革靴がまず目に入り、顔を上げるとそこには昨日会ったばかりの男の顔があった。そしてラインハルトは、自分のほんの些細な望みすら、すでに打ち砕かれていることを知った。

「やあ、おかえりヘンスくん」

「……どうして、あなたが」

 みっともないくらいに、その声は震えていた。

「どうして、か」と、ミュラー弁護士はため息をつく。

 彼の足元にはこんもりとタバコの吸い殻の小山が築かれていて、もうずいぶん長い間そこでラインハルトの帰りを待っていたのであろうことが伺えた。

「それはこっちの台詞だよ。ハウスドルフさんも君のことは心から信用して感謝していたのに、まさかね」

 叱責というよりは失望の色を強く匂わせる口ぶりだった。

 オスカルだ。オスカルが話したのだ。ルーカスの法定後見人であるハウスドルフ氏やその代理人であるミュラー弁護士に、彼の知る――彼の思い込んでいる――ラインハルトという人間の危険性について。

「オスカルは……誤解しています」

 しかしミュラー弁護士は静かに首を横に振る。

「誤解かどうかはあまり重要な問題ではないよ。肝心なのは過去の君の行状を知った上で、それでも君に子どもを預けたいと思うか人間がいるかどうかだ」

 まただ。ラインハルトが何を考えているか、どんな人間であるかなんて誰も気にしない。ただ同性を恋愛対象としているというそれだけで、まるで見境なく誰彼を襲う猛獣であるかのように見なされてしまう。

「ヘンスくん、君こそ誤解しないで欲しい。ハウスドルフさんだって君の今までの貢献には心底感謝しているんだよ。君を悪人だと思っているわけでもない。ただ、いくら血がつながっていないとはいえ可愛い甥っ子の遺児を、周囲から誤解されかねない環境に置くことは望ましくないと思っているんだ。ほら、彼らの家系はみんな熱心なカトリックだしね」

 いまさら何を言うのだろう。その「可愛い甥っ子の遺児」を醜く押し付け合い、最終的によく知りもしない若い男のところに厄介払いできたと喜んでいたのは一体誰だ。ナチの庇護を受けていたと知りますますルーカスを持て余した結果、ラインハルトの養子にすることで完全に縁を切ろうとしていたのは誰だ。それとも、それほど重荷に感じていたにも関わらずルーカスを救い出そうとするほど――彼らは、今のラインハルトのことを危険な人間だと思っているのだろうか。

「やめてください、俺はルーカスには何も。本当に何も……」

 だが、ラインハルトはそれ以上言葉を続けることができない。なぜなら自分がルーカスに愛情を抱きつつあることを自覚しているから。いくら思いを押し隠したとしても、心の底には殺しきれない気持ちが残るであろうことが、あまりに明白であるから。

 うつむいて黙りこくったラインハルトの肩を、ミュラー弁護士が軽く叩いた。

「彼に見損なわれるのが怖いか? だったら君にできるのは身を引くことだけだ」

 有無を言わさぬ厳しい口調の奥に、微かな同情の色が見えた。

 これまでの感謝の証だ、とささやいて、弁護士はラインハルトの着古したジャケットのポケットに封筒をねじ込む。今はそれを突き返す気力すら起きなくて、ラインハルトは遠ざかる靴音をただ呆然と聞いていた。

 ルーカスは、もう二度とここに戻ってこない。ラインハルトがどんな人間で、どんな目でルーカスを見ていたかについて、今頃ハウスドルフ氏から聞かされているだろう。おそらくは、誇張や脚色すら含んだかたちで。そしてルーカスは、これまで信頼を寄せてきた相手の隠された一面に失望し、騙されたと憤っているのかもしれない。

 子どもの頃よくやっていた積み木遊びを思い出す。理想の家を、理想の居場所を作ろうとひとつひとつおぼつかない手でブロックを積み上げるが、不器用なラインハルトはいつも完成直前でそれを崩してしまう。一度だって最後まで積み上がったことなどなかった。

 やっと自分ひとりの居場所を作り、それがふたりの居場所になりかけたところで、またゼロに戻る。手の中に残るのは虚しさだけ。のろのろと鍵を開け、部屋に入るとソファに倒れ込む。少しだけ、ルーカスのにおいがした。

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