Chapter 3|第52話

 ソファに横たわったままぼんやりと部屋の中を眺める。たったひとりの同居人が消えただけで、たいして広くもない部屋ががらんと大きく見えた。そういえば、至るところにあったはずのルーカスの私物がなくなっている。ラインハルトがいない間に荷物を取りに来たのだろう。ルーカスは自分で鍵を開けて、荷物を持って行った。つまり彼は納得してここから去ったいうことなのだろう。

 いつからか家に帰ればルーカスがいることが当たり前になり、心のどこかでは二人の生活が永遠に続くのではないかと思っていた。学校を卒業すれば彼は出て行く、そう自分に言い聞かせながらも、ルーカスが自主的にここに留まることを期待していた。

「……ルーカス」

 小さく名前を呼んでみる。当然だが返事などない。毎晩ルーカスが眠っていたソファの座面に鼻先を擦りつけて微かに残る彼の匂いを探す。背もたれにかかっているブランケットを引き寄せて、まるでそれがルーカスの分身であるかのように抱きしめてみる。

 完全に失ってしまったからこそ、もう気持ちを否定することも抑えることも必要ない。自分はルーカスに惹かれていた。彼を愛しはじめていた。彼を自分だけのものにしたいと思っていた。望みなどないと知りつつ、心の奥底ではいつか成長した彼に愛の言葉を囁かれ抱きしめられることを夢見ていたのだ。

 短くて愚かな夢の代償は、あまりに大きい。子どもっぽい甘い匂いと、若者らしい青臭さが混ざったようなルーカスの匂いを吸い込むと、目の奥がずきんと痛んだ。やがて視界がぼんやりとにじみ、ラインハルトは自分が泣いていることに気づいた。それと同時に奇妙な疼きが胸の奥に生まれ、やがてじわじわと体の中を広がって行く。

 目を閉じて思い出すのはあの夜のこと。ソファの背もたれ越しにルーカスの吐息と衣擦れを聞いた。ひどく動揺したのはルーカスの思わぬ成長を知ってしまったから。自慰行為は教会で受けた教えに縛られているラインハルトにとっては禁忌であるから。でも、今ならわかる。本当は――うろたえ恐怖した一番の理由は。隠微な行為にふけるルーカスの気配に、自分の欲情がかきたてられるのを感じていたからだ。

 ラインハルトは静かに涙を流しながら、自分の体が熱を持ちはじめていることに気づいた。どうかしている。頭がおかしくなったのかもしれない。よりによって今この状況でなぜ性的興奮に襲われるなんて正気ではない。だが昨日から今日にかけてはあまりにも多くのことが起こりすぎたし、しかもそのすべてはラインハルトを傷つけ完全に打ちのめした。だから、完全に壊れておかしくなっているとしても仕方ないのだ。

 これまで一度として能動的にやったことのない行為。ラインハルトはルーカスの匂いを嗅ぎながら、涙でまなじりを濡らしながら、そっと右手を伸ばすと服の上から自分の股間に触れた。そこは既にわずかに兆していて、布越しにそっと握り、擦ってみるとなんとも例えようのない感覚にびくりと全身が震えた。

 あの晩、もしかしたら他の夜も、何度もルーカスはここで「これ」をやっていたのかもしれない。ラインハルトはルーカスのことを思い浮かべて、彼の行為をなぞるように自分に触れた。もちろんラインハルトには経験がないし、ルーカスが実際にどんな風に彼自身に触れていたかを実際に見たわけではない。だが、おずおずと慣れない手つきであっても、触れているうちにそこはあからさまに熱さと硬さを増す。

「あ……っ」

 思わず声が出る頃には頭の奥がぼんやりして、少しだけ悲しみや苦しみが麻痺したような気分になる。だからラインハルトはますます行為に夢中になる。誰も見ていない、誰も聞いていないのだから何も気にしなくたっていい。肌に触れる布がじっとりと濡れはじめるのを感じ、とうとうズボンの前を開けて固く立ち上がったものを取り出して直接触れる。

「っ、は。……あっ」

 自分の体から聞こえてくる、くちゅくちゅといやらしく濡れた音。後ろめたさと怖さはあるが、それ以上に直接体に触れることで得られる快楽は大きい。強烈にセックスを求める人間のことをこれまでラインハルトは理解できなかった。でもこんなにも強烈な快感で頭の中を真っ白にできるのならば――行為に夢中になる人たちの気持ちもわかる気がする。

 ラインハルトは泣きながら自分の体に触れ続けた。やがて絶頂が訪れると、興奮と快楽は嘘のように虚しさへと変わる。それが寂しくて、再び下半身に手を伸ばす。盛りのついた動物のように何度も何度も空虚な行為を繰り返し、やがて疲れ果ててそのまま眠ってしまった。

 翌朝はいつも通りの時間に目を覚ました。

 自分が寝室のベッド以外の場所で眠っていたことに驚くが、それもほんの一瞬のこと。自分の性志向が明らかになったことで仕事を失い、ルーカスもいなくなってしまったことを思い出す。頭が痛むのは昨晩ひどく泣いたからなのか、慣れない場所で寝たせいなのかわからない。喉の渇きを感じたのでよろよろと起き出してキッチンに向かうが、コップの水を一杯飲み干したところで吐き気に襲われてバスルームに駆け込んだ。

 洗面台の鏡が目に入る。あごに微かに無精髭が浮いた疲れた顔。ぼさぼさに乱れた茶色い髪。今までもこれからも永遠にひとりぼっちで生きるしかない、誰にも愛されない孤独な男。

 心臓がばくばくと激しい鼓動を打ちはじめる。ルーカスとの生活が安定するにつれて、少しずつ今の自分を受け入れられるようになってきた。そのつもりでいた。でも、何もかもは勘違いで、やっぱりこんな醜い姿をして異常な性嗜好を持つ男のことなど誰ひとり気にかけてはくれないのだ。

 気づいたら鏡に拳を叩きつけていた。血のにじみ出す拳も気にせず、震える手で剃刀を掴む。石鹸もつけず、鏡も見ずに剃刀を走らせるうちに顎のあちこちにも傷を作ってしまったようで、やがて洗面台には点々と赤い染みが散らばった。それでも気が収まらず、服も着替えないまま部屋を飛び出し一番近い薬局へ向かう。顔や手に血のにじむ生傷を作った状態で髪の脱色剤の箱を両手いっぱいに抱えるラインハルトの姿はよっぽど異様だったのか、店番の女は引きつった顔で慌てたように品物を袋に詰めた。

 小走りで家に帰り、バスルームにこもる。

 懐かしい脱色剤の刺激臭に包まれていると少しずつ気持ちが落ち着いてくる。一年以上もどうしてこれをやらずにいられたのか、不思議なくらいだった。こんなことで何かが取り戻せるわけではないことは知っている。でも確かに以前はこの行為のおかげで心はぎりぎりのところで平穏を保ち、なんとか社会生活を営むことができていた。だから、同じようにすればきっとまたあの頃に戻れる。ひとりで生きていくことができるはずだ。

 薬剤を洗い流し、棚からタオルを取り出し髪を拭く。蜘蛛の巣状のひびが入った鏡に金色の髪の男の姿が映っているのを確認してラインハルトは少しだけ満足した。

 そのとき、突然バスルームの扉が外側から開いた。あまりの驚きにラインハルトは叫び声をあげることすらできず、身構えながら振り向く。そこにいたのは――。

「なんだよ、その格好」

 唖然としてつぶやくルーカスは、どこか傷ついたような表情を浮かべていた。