「なんだよって、おまえ……」
それはこっちの台詞だと思った。昨日ミュラー弁護士は、ルーカスはここを去り二度と戻ってこないのだと言った。実際にルーカス自身が部屋の鍵を開け荷物を持って出て行ったのだ。それが、なぜ今ここに。普段ならば学校に行っている時間だ。
「本当はすぐにでも戻るつもりだったけど、朝は叔父さんが学校までついてきたから逃げる隙がなかった」
ルーカスは体裁悪そうに言った。つまり、彼はここを出ていくことを自ら望んだのではないのだと。その言葉を額面通りに受け取るほど馬鹿ではないつもりだが、ともかく今目の前にルーカスがいることだけは確かで、ラインハルトは濡れた髪を拭く手を止めてただ彼の顔をじっと見つめる。
「でも、今だって授業中だろう」
「授業なんか、どうだっていいよ!」
間抜けな返事に焦れたように、ルーカスはびしょびしょに濡れたバスルームに靴のまま踏み込んで来た。
「無理やりみたいに連れて行かれて、もう二度とここには戻るなって言われて、はいそうですかなんて思えない。叔父さんとあの弁護士とかいう人はラインハルトも納得済みだって言っていたけど、そんなはずないよね。だってあんたは絶対に僕を放り出さないって約束したんだから」
思いの外激しい剣幕に、ラインハルトはうろたえた。喜びはある。ルーカスにまた会えた。ルーカスは決して自らここを出て行ったのではなかった。それどころか叔父の目を盗んで、授業中の学校を抜け出してまで戻って来てくれた。紛れもなくそれはラインハルトの胸を躍らせる。一方で湧き上がるのはどうしようもない不安だ。
「待てよ。ルーカスおまえ、あの人たちから何を聞かされたんだ? どこまで知っているんだ?」
ラインハルトの性癖のこと。親切な年長者のふりをしてルーカスを邪な目で見ていたこと。何をどこまで知った上で、ルーカスはここに戻って来たのだろうか。何も知らないままなのであれば、ルーカスはまだラインハルトという人間の正体を知らないまま無邪気な信頼を寄せていることになる。でも、もしも何もかも知った上で彼が今ここに来ることを選んだのだとすれば、それが意味することは――。
「そんなこと後で話せばいい。なんだよその顔、その髪。ひどい姿だ。まずは着替えて消毒を……」
ルーカスはラインハルトの質問には答えず、眉を潜めてバスルームの惨状を見渡す。床に散らばった脱色剤の箱。洗面台の鏡は割れ、ラインハルトの手の甲や顔のあちこちから流れた血がところどころを赤く汚している。我を失った場面を見られたのは最初ではないが、今日に限ってはその理由まで見透かされたような気がしてラインハルトは黙り込んだ。
返事がないことに苛立ったかのようにルーカスはラインハルトの腕を掴み、バスルームの外へ引っ張りだす。有無を言わさない剣幕と強い力に、ラインハルトは裸足のままルーカスについてキッチンを抜けた。
以前に顔を切ったときのようにリビングで傷口の手当をされるのかと思ったが、今日のルーカスは何も言わずソファの横を通り抜け、ためらうこともなく寝室のドアを開ける。
「ルーカス、何をっ」
思わず声を出したのは、一緒に暮らしはじめてから二年近い間ずっとルーカスには寝室に入らないよう言いつけていたからだ。ルーカスが足を踏み入れたのは寝坊したラインハルトを起こすときなどほんの数回だけだし、もちろんその度にきつく叱ってきた。だから、ルーカスがこんな風に堂々とラインハルトの聖域に踏み込むことにはどうしようもない違和感がある。
だがルーカスは謝りもせずラインハルトを寝台に向けて突き飛ばすと、勝手にクローゼットを開け、適当に掴んだシャツとズボンを投げてよこす。
「そんなびしょびしょに濡れたままだと風邪を引く。救急箱を取って来るからその間に着替えて」
「待てよルーカス。何にそんなに……」
今のラインハルトには、言いつけを破って寝室に足を踏み入れたルーカスを叱る余裕すらない。むしろ激しい憤りを露わにするルーカスに戸惑うことしかできなかった。
寝室を出て行こうとしていたルーカスは振り返る。
「何にって、当たり前だろう。約束を破って僕をここから放り出した」
「そんなことしていない。だって、ハウスドルフさんたちが俺みたいな人間のところにおまえを置いておけないからって」
「でも、あんただって納得済みだって言われた」
そこでラインハルトはようやく、自分とルーカスの認識が完全に食い違っていることに気づく。ラインハルトはてっきり自分の性癖を知ったルーカスが納得づくでここを出て行ったのだと思っていた。だがルーカスは、ラインハルトが自らルーカスが出て行くよう仕向けたと思っているのだ。
「それは――」
もちろん納得なんかしていない。だが、ここでそれをはっきりと口にすることは躊躇した。だって、それを告げることはきっと。
「いいから、とにかく着替えて」
バタンと音がして寝室の扉が閉じるのを呆然と眺める。
ルーカスに去られてもう立ち直れないと思った。正気を失って、バスルームをめちゃくちゃにして、顔や手を傷だらけにして、久しぶりに強迫行為である髪の脱色にまで手を出した。でもその一方でラインハルトはこれは然るべき運命だとも思っていた。決して叶わない恋はどこかで終止符を打つべきだし、長引けば長引くほど、行き着く先はより悲惨な場所になるのだと。
いまやラインハルトの秘密は暴かれた。少年時代の出来事はオスカルとラインハルト双方の親の利害の一致により学校や周囲に明らかになることはなかった。だが今、口の軽いルーカスの親戚や小学校の人々などは噂に尾ひれをつけてラインハルトの秘密を話し、それを聞いた人々は面白おかしく騒ぎ立てるだろう。そうなったとき、傷つくのも不利益を受けるのもラインハルトだけではない。
ルーカスはただでさえ、ナチの庇護を受けてレーベンスボルンで育てられた少年であるというスティグマを抱えている。気丈なルーカスがいくら平然と振る舞っても、今後の進学や就職、結婚など色々な場面でその過去は彼の前に立ちはだかるかもしれない。そこにさらに、小児性愛者の男に囲われていたという話が広がれば――ラインハルトの頭の中は真っ白になる。ルーカスが戻ってきてくれたことは嬉しい。でもこの喜びは、正しい感情ではないのだ。
「着替えてって言ったのに。動きたくないなら先に消毒するよ」
救急箱を手に戻ってきたルーカスは、ラインハルトがずぶ濡れの服のままベッドに座り込んでいるのを見て小さくため息をついた。まるで言うことをきかない子どもに呆れる大人のような振る舞いで、ルーカスはほんの一晩で数年分も成長してしまったかのようだった。
「大丈夫、自分でできる」
「できないから、こんな顔のままでいたんだろ」
振り絞った言葉はあっさりと否定された。ルーカスはラインハルトの顎に手をかけ、濡れた髪にかかっていたタオルを取るとぐっと口の周りを拭う。白いタオルは乾いた血の色に汚れ、床に落とされた。
ルーカスはラインハルトの傷ひとつひとつを丁寧に消毒し、絆創膏を貼った。顔だけではなく鏡を叩き割ったときに切った手の甲の切り傷も、手当をしてからきれいに包帯を巻いた。それまで存在すら感じていなかった傷が、ルーカスの手に触れられるとじくじくと痛みはじめた。
「……学校をさぼってここに来たことがばれたら」
ラインハルトがつぶやくと、ルーカスはゆっくりと左右に首を振った。
「大げさな心配しないで。ただ自分の家に戻っただけだ」
自信に満ちた言葉が間違っていることをラインハルトは知っている。ここはもうルーカスのいて良い場所ではないし、彼が自分の意思でラインハルトの元に戻ったことが知られれば、大変なことになる。なのになぜルーカスはこんなに平然としているのだろう。子どもだからことの重大性を認識していないのだろうか。
「ルーカスおまえ、あの叔父さんに俺が……同性愛者だってことは聞いたんだよな。だからそんな危険な人間のところに置いておけないって、彼らはおまえを連れに来たんだろう?」
ラインハルトの声はひどく震えた。
「だったら、なんだって言うんだよ」
父だって、勤め先の人間だって――オスカルすら今ではただ嫌悪の表情を浮かべるだけだったラインハルトの秘密を知って、それでもルーカスは動じなかった。
「聞いたよ。昔、今の僕よりも若いくらいのときに、男と付き合って問題になったんだって。それが前に言っていた初恋の相手? そいつのことが忘れられないせいで、あんたはずっと呪いにかかったみたいになってたの? 食事もとらずガリガリに痩せて、そんな髪色にして」
「やめろ、そんな話をしているんじゃない」
ラインハルトは恐怖に襲われた。何もかも見透かされて、醜い欲望も惨めな過去も知られてしまった。なのになぜルーカスがここに戻ってきたのか、こうして自分とふたりきりになろうとするのか、理解ができない。
ルーカスは硬直したラインハルトに向かって手を伸ばすと、濡れたままの、金色に色を変えたラインハルトの髪に触れる。
「ラインハルト、そんな呪いは僕が解いてあげる」