Chapter 3|第54話

 呪い――確かにラインハルトが長い間取り憑かれてきた強迫観念をそう呼ぶことは正しいのだろう。そして、ほんのいっときではあるけれど、ルーカスはその呪いの力を弱めてくれた。ありのままの今の自分を肯定することまでは難しいにしても、ラインハルトは少なくとも鏡に映る姿を受け入れることができるかもしれないと本気で信じかけた。

 でも、そんな日々は終わってしまった。

 オスカルは何の悪意もなしに、今のラインハルトを否定した。あの頃のラインハルトの外見が少女のように愛らしかったからこそ、同性相手に間違いを犯しそうになったのだと言い切った。結局のところそれがすべてで、成長して大人の男になったラインハルトのことなど誰も愛したりはしない。

 今の自分は、存在そのものが犯罪であるかのように言い訳の機会を与えられることもなく職場さえ追われるただの薄気味悪い異常性愛者。そしてこの呪いを解くことなど永遠に不可能なのだと今では確信していた。

 ラインハルトは、ルーカスの言葉をただの冗談だと思った。いや、それどころか悪趣味なからかいなのではないかと疑った。

「呪いを解く? 馬鹿なこと言ってないで学校に戻れよ」

 だって、昨日ルーカスは自分でここの鍵を開け荷物をまとめて出て行ったのだ。いまさらここに姿を現し、取り繕うようなことを言われてもとても信用することなどできない。自嘲混じりの笑いを浮かべてつぶやくラインハルトに向かって、ルーカスは語気を強める。

「馬鹿なこと言ってるのはどっちだよ。子ども扱いしないで、ちゃんと聞けよ。そんな奴なんかより僕の方がちゃんとずっと、あんたのことを愛して大事にできるって言っているんだ」

 ――今、ルーカスは何と言った? ラインハルトは返事をすることもできず、呼吸をすることも忘れそうになった。

 聞き間違いかもしれない。聞き間違いであるに違いない。だって、自分は醜いから。だって、自分は汚れているから。決して誰かから「愛」などという言葉を、気持ちを受け取ることなど一生ないのだから。しかし、寝台に腰掛けたまま向かい合い、ルーカスは身を乗り出してラインハルトの顔をのぞき込んで訴えてくる。

「最初は変な奴だと思ったよ。僕はあのとき自分こそ世界一可哀想な人間だと思っていたから……家族もいて何不自由なく育ったように見えるあんたが、なんでああまで不幸ぶっているのかわからなかった。でもだんだん理由なんてどうでも良くなった。僕はあんたがいれば寂しくないし、僕がいればあんただってもう一生寂しい思いなんてしない」

 不思議なことだが、ルーカスの声に熱がこもり瞳が必死になるほどラインハルトの心は冷え切っていくようだった。初めて聞かされる言葉と気持ち。あんなにも焦がれた愛の言葉はひどく空虚に、現実離れして響いた。

 誰かが自分を愛することなどあり得ない。もしもルーカスがラインハルトに愛情や執着を抱いているのだとすれば、それはただの勘違いだ。家族や生育環境に恵まれなかった彼は窮地を救ってくれた大人に懐いて、未熟さゆえにその感情を愛情と履き違えているに違いない。

「……ルーカス、それは思い違いだ。おまえはまだ子どもだから言葉の意味をわかっていない」

 こんなこと、真に受けてはいけない。オスカルのあれが思春期特有の気まぐれだったのと同じで、ルーカスはやがて目を覚ます。期待すればしただけラインハルトは傷つく。もしも、もしもそうでなければ――きっと、もっと悪い。

「帰れ」

「ラインハルト?」

 ラインハルトは弾かれたように立ち上がると、並んで座っていたルーカスの袖を引いた。

 駄目だ。ここに来たことを知られてはいけない。それどころかルーカスがラインハルトに今なお情を感じていることなんて、絶対に誰にも気づかれてはいけない。そうでないとルーカスは完全に足を踏み外して、戻れなくなってしまう。

「帰って、もう二度とここに来るな。叔父さんたちの前でも絶対に俺の話はするな。じゃなきゃ、ナチの子と呼ばれる以上にひどい目に遭うぞ。一生を棒に振ることになるんだ」

 強く引っ張るとルーカスは渋々立ち上がるが、ドアの方へ連れて行こうとしても頑なに動こうとはしない。代わりにラインハルトの肩を掴み、強引に振り向かせると再び正面から向かい合った。シャツ越しなのに、ルーカスの手はひどく熱かった。体温だけでない、眼差しや言葉もいっそう熱っぽさを増し、ラインハルトをうろたえさせる。

「ラインハルト、勝手なことばかり言うなよ。子ども扱いしないでくれって何度も言ったはずだし、あんただって僕がもう子どもじゃないってわかってるはずだ。あの晩、見てたんだろう?」

「……あの晩?」

 嫌な予感にぎくりと体が震える。そして当然ながらその動揺は触れている場所からルーカスに伝わってしまう。とても子どもとは思えないような唇の端だけを歪めるやり方で、ルーカスは微かに笑ったようだった。

「そうだ。寝室のドアを開けて、僕が何をやってるかに気づいて、耳をそばだててた。気づいていないとでも思った?」

 ばれていた。あの晩、ルーカスはラインハルトがすぐそばにいることに気づいて「あれ」を続けていた。あからさまな言葉に全身がかっと熱くなるのがわかった。ルーカスは何もかも知っていて行為を続けて、翌日以降動揺するラインハルトに平然と向かい合っていたというのだ。そして今も。

「子どもじゃないから、愛情だって欲情だって知ってる。あの晩の僕は、あんたのことを考えて自分を慰めてたよ。あんたに聞かれてることに気づいて最初はどうしようって思ったけど、不思議だよね。ものすごく興奮した」

「やめろって!」

 そこにはもうキッチンで涙を流していた少年の姿はない。ラインハルトが居場所を与えて守ってやらなければいけないと強く思っていたルーカスは、どこにもいなかった。まるでラインハルトの反応を面白がっているかのように、ルーカスは露悪的で品のない言葉を続ける。

「あのときだけじゃない、最初から体が熱くなるのはあんたのことを考えているときだけだ。でも、あの晩以降あんたが冷たくなったから、引かれたんじゃないかって少し不安だった――だから」

 見知らぬ男のような顔をしたルーカスは、混乱で耳を塞ごうとするラインハルトの両手を引き剥がす。

「昨日、ラインハルトが同性愛者だって聞いて、すごく嬉しかったんだ」

 耳元で囁きかけてくる言葉は、まるで甘い毒のよう。ラインハルトは今度こそ深く深く、地獄の底に沈んでいくような錯覚を味わっていた。

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