Chapter 3|第55話

 手が震えているのは、じくじくと痛む傷のせいだろうか。決して気温が低いわけでもないのに背筋が冷たくて仕方ないのは、髪が濡れたままだからなのか。いや、きっとそうではない。

 誰かを愛し、その相手からも愛される。長い間夢に見て、自分には手に入らないのだとあきらめてきた。でも自分はいつからかルーカスに惹かれるようになり、そのルーカスは今ここで、目の前でラインハルトに愛の言葉を囁いている。夢は叶ったはずなのに、なぜほんの少しも喜べないのだろう。

 どうして。いつからこんなことに。いつからか隠しているつもりできっと隠し切れていなかった。同じ屋根の下で暮らすうちに彼のことまで歪めてしまったのだ。ラインハルトは気づかないうちにルーカスを巻き込んでしまった。きっと最悪なかたちで。

「ラインハルト、寒い? 震えてる」

 ラインハルトの手を握ったままのルーカスが不思議そうにつぶやく。ルーカスの体温や、耳たぶに触れそうな吐息が熱いのは、きっと彼が子どもだからではない。その声色ににじむのは濡れたような色気と押し殺し切れない欲望。ゆっくりと近づいてきた唇が首筋をかすめそうになり、はっとしてラインハルトは体を退く。

「それ以上は近寄るな」

 ルーカスの手を振り払い、ラインハルトは後ずさりした。目の前にいるこれは自分の知っているルーカスではない。ルーカスは……何も知らない子どもだった。ラインハルトが一方的に歪んだ想いを寄せたって、健やかに真っ直ぐに育っていくはずだった。

 いつの日か、照れくさそうに女の子を連れてくるかもしれない。この家を出て行ってしばらく経ってから、ふとした拍子に結婚が決まったという手紙のひとつでもよこすかもしれない。もちろんそれはラインハルトにとっては辛く悲しいことだが、それでもルーカスはごく普通の、当たり前で幸せで、孤独とは程遠い人生を歩んでいくはずだった。ある意味では身代わりのように、ラインハルトには手の届かなかった幸せな人生を生きてくれるはずだった。

 自分とよく似た可哀想な少年を救いたい。それこそがラインハルトがルーカスを引き取った理由だったのに、いつからか、どこからか完全に何かが狂ってしまった。こんなことなら、ルーカスはラインハルトと出会わなかった方がよっぽどましだった。養護施設に引き取られたって、ナチの子と言われたって、それでも年の離れた男に囲われる同性愛者などという烙印までは背負わずに済んだはずだ。

 自分が人ひとりの、しかも誰より守り導いてやるべき相手の人生を台無しにしてしまった――その事実はラインハルトにとって何より恐ろしく思えた。

「ふざけるなよ、何が同性愛者だ。そんなのただの思い込みに決まってる。いいか、二度と俺の前でも他の誰の前でもそんなこと口にするんじゃない。わかったか? わかったら帰れ」

 ラインハルトは無我夢中でルーカスに訴えた。本心ではルーカスに怒りを向けることが誤りであることはわかっている。ルーカスはただの無知で無垢な被害者で、悪いのは彼に悪い影響を与えた自分自身なのだということも。

 オスカルの蔑むような眼差し。学校を去るときの惨めな気持ち。何もかもルーカスには味あわせたくない。ルーカスの人生には必要のないものだ。そして、今ならばまだルーカスは引き返すことができる。

 だが、ルーカスは一歩も引かなかった。

「何言ってるんだよ、僕がいなくなったことがショックだったんだろう? だからそんなひどい姿で呆然としてたんだろう? 昨日勝手に出て行ったことは謝るよ、だからまたここで一緒に……」

 ラインハルトには、ルーカスのその自信が一体どこから湧いてくるのかわからない。いや――本当にわからない? 自分だって、最初はそうだった。十四歳の頃のラインハルトはこっぴどく父に叱られても、教会に背く恋なのだと知っていても、それでも自分とオスカルとの恋愛は「真実の愛」で、決して壊れない特別なものなのだと信じ込んでいた。

 だからきっとルーカスもひどい思い違いをしている。若さと未熟さゆえにラインハルトへの家族的な思慕を恋愛感情と履き違えて、しかもその気持ちは成就して当然なのだと思い込んでいるのだ。かつての自分とルーカスはよく似ている。だからこそラインハルトにはわかる。夢はいつか消えて、手元に残るのは冷たい現実だけ。そして夢が長く続けば続くほど、現実に目覚めたときの傷は深くなり、長いこと痛み続ける。だから、今のラインハルトにできることはひとつだけ。

「思い上がるな。誰がおまえのためになんか。これは、そういうんじゃない」

 一歩一歩ルーカスがにじり寄り、それから逃げるようにラインハルトは一歩一歩後ずさりする。再びベッド脇まで追い詰められたところでルーカスは手を伸ばし、ラインハルトのまだしっとりと濡れた髪に触れた。

「ラインハルト、お願いだから本当のことを言って。その髪だって……」

 一切の余裕はなかった。頭半分だけ低い場所からじっと見つけてくる青い瞳。祈るようなすがるような言葉にぎゅっと胸が痛む。

 本当のこと――。ルーカスに秘密を知られ見限られたと思った。そのショックで自暴自棄になって、久しぶりに自傷行為に及んだ。ルーカスが戻ってきてくれて、自分を嫌っていないのだと知って、本当は嬉しかった。でも、それを正直に口にすることはルーカスの平穏な未来を潰すことに他ならない。だからラインハルトは回らない頭でルーカスの勘違いを断ち切らせるための言い訳を考えた。必死に考えて、やっと口を開く。

「初恋の相手に再会してつれなくされたんだから、そりゃショックくらい受けるさ。あいつが好きだって言ってた金色の髪に戻したくなるのも当たり前だろう」

「ラインハルト……?」

 ルーカスの顔面は一瞬で真っ青になる。いっそ滑稽なくらいのそれは、ラインハルトの言葉が思った通りの効果を発揮したことを意味していた。だからラインハルトは胸の痛みに目を背け、言葉を続ける。ルーカスが正気に戻って、二度と妙なことなど考えないように、

「昨日どこに行っていたか、気にしてたよな? 初恋の相手に会ったんだ。彼からは、今の俺は愛せないって言われたよ。かつての少女みたいだった姿に間違いを起こしそうになっただけだって。だからショックで、久しぶりに髪を脱色したくなった。おまえは関係ないよ」

「嘘だ、そんなの……」

 今度はルーカスが小さく震えだす。さっきまでの大人びた態度が嘘のように視線が泳いで、小さく首を振ってラインハルトの言葉を否定しようとした。

 少年らしい態度に戻ったルーカスに哀れみがないといえば嘘になる。でも、ここで情をかければ元の木阿弥だ。ラインハルトは何かもうひとつ決定的な、ルーカスの心を折る材料を探した。そして、ちょうど目に入ったのは、ベッドサイドのテーブルにずっと置いたままになっていた十字架のネックレスだった。ずっと捨てようと思って、何となく捨てられずにいたそれは、十四歳の頃にオスカルと揃いで買った子ども騙しの安物。

 ラインハルトにとっては唯一、過去の恋愛を証明することができる大切な記念品だった。一方でオスカルにとってはすでに十四歳の時点でどこかに失くして、存在すら忘れてしまったもの。今となってはただの痛みしかもたらさない十字架をつかむと、ラインハルトはそれをルーカスに向けて掲げて見せた。

「嘘じゃない。これ、十四歳のときに彼とお揃いで買った十字架だ。何のためにまだ俺が大事に持っていると思う? あの頃のことを忘れられないからだ。俺が好きなのはオスカルだけだ。ルーカス、おまえのことなんか全然考えていなかった」

 ふっと、ルーカスの瞳の奥が燃えるのが見えた。もっと素直な落胆を想像していた。傷ついて、なんなら涙でも流して帰っていくのだと思った。可哀想だが、それでもいいと思っていた。でも――ルーカスは一歩踏み出すと、ラインハルトを睨みつける。

「嘘つき!」

 そして、ラインハルトの手からむしり取るように十字架を奪ったルーカスは、止める間もなくそれを窓の外に投げ捨てた。