Chapter 3|第56話

 ルーカスが手を振り上げると、そこから飛び出した小さなかけらが太陽の光を受けて一瞬キラリと光ったような気がした。スローモーションのようにゆっくりに見えたけれど、何もかもきっと実際は一瞬のことだった。そして、ラインハルトの初恋の証である十字架のネックレスは窓の外へと消えていった。

 窓の外に顔を向けたまま肩で息をしている興奮冷めやらぬ様子のルーカス。その背中を呆然と眺めながらラインハルトは足元から這い上ってくる不安と恐怖に立ちすくんでいた。

 ネックレスがなくなってしまったことはいまさらたいした問題ではない。オスカルとの思い出が完全に汚れてしまった今では、あんな安物のがらくたなんてちっとも惜しいとは思わない。

 怖いのは、ルーカスの見せる激情。彼がもしかしたらラインハルトが思っている以上に――たとえそれが一時的な熱病のようなものなのだとしても――本気であるかもしれないということ。そして、うっかり隙を見せれば自分自身がこの状況に取り込まれてしまいそうなことだった。

 ここまでずっと間違い続けてきた。幻に過ぎなかった幼い恋愛に舞い上がり、尊敬していた父親を失望させ、家や教会といった居場所を台無しにした。正面から自分の性志向を受け入れて生きていくほどの覚悟も勇気もないくせに、何もかもを胸の奥にしまいこんで人並みの恋愛や結婚をしようという決断もできなかった。

 中途半端なままで、自分からは何もできないままで、でもいつの日か夢のように、運命の恋が自分の元に降ってくるのではないかと、少女みたいな希望や期待を捨てきれずにいた。その結果として、ルーカスをこんな茶番に巻き込んだ。だからもうこれ以上は、今だけは過ちを犯すことはできない。

「ルーカス」

 名前を呼ぶと、ルーカスの肩が少し震えたようだった。ゆっくりと振り返った顔はまだ紅潮しているが、その目にはごくわずかながら怯えた色が見える。少し冷静になった頭で、十字架を投げ捨てたことにラインハルトが怒っている可能性に思い当たったのだろう。

 ラインハルトはゆっくりと踏み出してルーカスの正面に立つ。そして包帯の巻かれた右手を上げて、思い切りルーカスの頬を打った。

「っ!」

 平手ではあったが思いきり力を込めたから、ピシッと鋭い音が鳴ると同時に無防備だったルーカスは小さな悲鳴を上げ、その体はぐらりと傾いだ。もちろんラインハルトの手にも痺れるような痛みが広がる。だが、こんな痛みに怖気づいてはいられない。

「いいかげんにしろ。勝手な思い込みばかりまくし立てて、こんな子どもみたいなことして、どれだけ迷惑を掛ければ気がすむんだ」

「迷惑……?」

「ああ、迷惑だよ。本当はもうずっとうんざりしていた」

 その顔にどれだけ傷ついた表情が浮かんだって、見えていない振りをする。きっと後になって、五年か十年経って振り返ればこれが一番良い選択だったと思えるだろうから、ラインハルトはただ勢いのままに心にもない言葉を吐く。

「あの叔父さんたちから聞いたんだろう? 俺が小児性愛者ペドフィリアの変態だって。それが事実だよ。おまえが綺麗な外見をした子どもだったから手元に置こうと思った。だから正直最近じゃ持て余してたんだ。引き取った手前、学校を出るまでは面倒みるしかないかとあきらめかけていたけど、連れて行ってもらえるならむしろありがたいくらい――」

 黙れ、という叫びに似た声が聞こえた気がした。しかし、それよりも肩のあたりを強く掴まれた衝撃の方がはるかに大きい。思わず目を閉じ、次の瞬間背中から柔らかいものの上に落ちる感覚。しまったと思うがもう遅い。続いて重く熱いものが覆いかぶさってきて、堪らずゆっくりとまぶたを開ける。

 目に入るのは、いつも通りの寝室の天井。ラインハルトは自分自身の寝台に仰向けに横たわっていた。もちろん押し倒してきたのはルーカスだ。まるでその体温を、匂いを確かめるようにラインハルトの肩口に顔を埋め、鼻先を擦り付けてくる。

「そんなこと。そんな嘘ばかり言うなよ」

 弱々しい言葉と裏腹に、全体重でしっかりとラインハルトを押さえ込もうとする動きに隙はない。体格はまだ追いつかれてはいないはずなのに、体に上手く力が入らず起き上がることができない。それどころかこれまでにないほど近い場所から感じる呼吸と温度に、場違いにも胸がざわめきそうになる。

「嘘なんかじゃない。迷惑なんだよ、本当に」

 絞り出すような言葉はほとんど自分に言い聞かせているようなものだ。本当はルーカスにここにいて欲しいだなんて、その言葉を無条件に信じてすがってしまいたいだなんて――絶対に間違っているのだから。

「どれだけ一緒にいて、どれだけあんたを見てきたと思っているんだよ。そんな言葉にごまかされたりしない」

 ルーカスの吐く息が熱く首筋をくすぐり、言葉は耳に甘く響く。耳を塞ごうとして持ち上げた手首がゆるい力に持っていかれると、「血が滲んでいる」という小さな声から少し遅れて包帯越しに唇が押し当てられた。

 甘い毒にじわじわと全身を侵される。動けないのは押さえつけられているからなのか、自分が抵抗する気力すら失ったからなのかわからない。そっと視線を動かすと、そこには陶酔したような表情でラインハルトの傷口に口付けるルーカスの姿があった。

 抱擁を受け入れることも、拒むこともできないままラインハルトはルーカスに組み敷かれたままで硬直していた。突き飛ばすとか、蹴り飛ばすとか、噛み付くとか、方法はいくらでもあるはずなのに、どうしても動き出せない。

「ラインハルト……」

 すっかり声変わりを終えた大人の男の声で、ルーカスが名前を呼ぶ。

何度も何度も傷口に触れるだけのキスを繰り返し、それに気を取られていたラインハルトはルーカスのもう一方の手がゆるゆると動き出すことにしばらく気づかずにいた。最初は肩を、腕をさするだけ。やがて脇から腹へ、そっと撫でさするだけだった手が下腹部をまさぐりはじめるに至って、ようやくラインハルトはその意図に気づく。

「……あっ」

 呆然と動きを止めていた体に電気が走ったかのようだった。

 昨晩は不慣れな自慰行為に耽り、そのままソファで眠り込んだ。ベルトは外しっぱなしだから、ルーカスの手は簡単にズボンのウエストをくぐってしまう。自分ですら滅多に触らなかったそこを、もちろん他人に触れさせたことなど一度もない。驚きと周知にラインハルトは慌ててルーカスの体を振りほどこうとする。

「ルーカス、何して……離せっ」

 体をよじり、脚をばたつかせ、抱きついてくる体を肘で押しのけようとするが、やはりここでもルーカスはしつこく、その動きは狡猾だった。暴れた隙に、仰向けだった体を裏返されてラインハルトはベッドに腹ばいの格好になり、ますます自由な動きを封じられる。体とベッドの間に潜り込んだルーカスの手はラインハルトの股間に伸ばされたままで、さらに暴れようとするとその手に軽く力を込められた。

「……っ」

 急所を握られ、本能的な恐怖にラインハルトの体はすくみ、動けなくなったところで耳に唇が押し付けられる。

「好きなんだ。ひどいことなんかしないから、お願い」

 それは、ほとんど懇願。動けないのは、怖いからなのか。それとも憐れみ――いや、もしかしたら自分自身の欲望のため。「嫌、嫌」とうわ言のようにつぶやき、ゆるゆると首を振るので精一杯で、結局はルーカスにされるがままになる。左腕で抱きしめられて、右の手がラインハルトの緊張と恐れで縮こまった性器を揉みしだき、撫でさする。ルーカスの下腹部はすぐに硬くなり、欲望を遂げようとするかのようにそれをラインハルトの背中に擦りつけてくる。

「……何で、反応しないの?」

 いくら触れても昂ぶる様子のないラインハルトの体に、やがてルーカスが苛立ったような声をあげる。理由はラインハルトにもわからない。昨晩はルーカスのことを思い浮かべるだけであんなに興奮して、猿のように何度も何度も自分で自分を慰めた。なのに実際にルーカスに抱きしめられて、その手に触れられているのにラインハルトの体はこれっぽっちも反応しないのだ。