「ごめん。本当に、ごめん……」
繰り返される謝罪の言葉が弱々しく小さくなり、嚙み殺すような嗚咽がしばらく部屋に響いていた。
なぜルーカスは謝るのだろう。口付けられても触れられてもなんの反応も示さずに、残酷な言葉だけを口にする相手にどうして謝ることができるのだろう。本当ならば謝るのはラインハルトの方なのに。いくら謝っても、ひざまずいても決して許されないほどのことをしたというのに。
そんなことを考えながらラインハルトは顔をあげることなくうつむいたままでいた。肩を落として泣いているルーカスを見れば心が揺らいでしまうかもしれない。また無駄な期待を抱いてしまうかもしれない。だから必死に下を向いて黙ったままでいた。これ以上自分自身も、ルーカスも傷つかずに済むように。
叔父を呼ぶ、という言葉が効果的だったのか。それともラインハルトに対して完全に失望したのかもしれない。やがてゆっくりとした足音に続き、まずは寝室、それから玄関の扉が閉まる音がした。ラインハルトにとってそれは世界が終わる音だった。階段を駆け下りていく音が次第に遠ざかり聞こえなくなるまでなんとかそのままで耐えたが、完全にルーカスの気配が消えてしまったところで、いっぱいに張り詰めていた糸のようなものがぷつりと切れた。
今度こそ本当にお終いだ。そうはっきりと認識した瞬間、感情が決壊した。
「ルーカス……っ」
ゆっくりと顔を上げると、閉じられた扉。すぐに視界が滲み、それすらはっきりとは見えなくなってしまう。
一刻も早くここを去って欲しいというのは、必死の理性だった。本心ではもちろん、どこにも行って欲しくなんかない。ずっとここで、一緒にいたかった。ルーカスの去った部屋を見たくなくて、ラインハルトはベッドに突っ伏したまま声を殺して泣いた。
最初に出会ったときからのことすべてが頭の中を駆け巡る。実家のリビングで黙りこくって座っていた、弱々しく小柄で頑なな少年の姿。無表情で、一切可愛げなんかなくて、彼を連れ帰ったことをどれだけ後悔したかわからない。それでも帰宅が遅くなったときすぐさま不満をぶつけてきたことを思えば、最初からルーカスは少しくらいはラインハルトに何らかの期待を――好意を抱いてくれていたのだろうか。
クララの話をすればどことなく不機嫌な様子で、そんなルーカスを疎ましく思う反面くすぐったい嬉しさも感じた。一体いつからなのか、どこからなのか、そんなことわからない。守ってやっているつもりだったのに、いつの間にかその存在に守られている気になり、深く依存していた。こんな自分のことを信頼して、愛情をもって、一緒にいることを幸せだと感じてくれる人間にようやく出会えたのだと、その存在にただ救われた。
手の中に握りしめた砂がこぼれ落ちていく――オスカルと離れ離れになったときはそんな気分だった。手のひらいっぱいにあったはずの希望が少しずつ失われていき、いつしかそこが空っぽになっていることに気付きながらも、心のどこかで現実を認めきれないままでいた。握りしめた拳を開けばせめて数粒くらいは、何かしら残っているのではないかとあさましい希望を抱き続けて十年近くを過ごした。
でも、今回は違う。もっとはっきりと容赦なく、ラインハルトは自らルーカスとの関係を断ち切った。
包帯に血の滲む右手を上げ、ゆっくりと指先を唇に当ててみる。ついさっきまで、ルーカスのあのバラ色の唇がここに触れ、吸い付き、貪ろうとしていた。まだ十分そこらしか経っていないのに何もかもは夢のように思える。いや、きっとルーカスがここにいた二年弱、それ自体が夢のようなものだったのだ。
自分には何もない。もしこの先ほかの誰かと出会ってもきっと同じことを繰り返すだけだ。例えば相手がオスカルのようなノーマルな男でなかったとしても、ルーカスのような年若い少年でなかったとしても、ラインハルトには何ひとつ手に入れることはできない。万が一誰かと触れ合うようなことがあっても、恋愛のやり方ひとつ知らないままこの年になってしまった自分は、ついさっきと同じように、キスにも愛撫にも応えることができず相手を失望させてしまうだけだ。
いつの間にか日が陰っている。涙は枯れ果てていた。目のあたりがぼんやりと腫れぼったくて、寝すぎた翌朝のようにただただ全身がだるい。ラインハルトはのろのろと立ち上がると、冷たくしんとしたリビングを抜けてバスルームへ向かった。散乱した鏡の破片やタオル、ヘアブリーチの空き箱などで足の踏み場もないバスルームを見て、自暴自棄になって鏡をたたき割ったのがつい今朝のことだったことを思い出した。
何もかもは終わった。今できることはただ何も考えず頭を真っ白にすること。そして元の生活を取り戻すだけ。ひとりぼっちならば慣れている。ラインハルトは腰をかがめると、まずは一番大きな鏡の破片を拾い上げた。
*
その日、次の日、その次の日、ルーカスからの連絡はなかった。
期待していたわけではないが、それでもルーカスがいなくなってからの日をぼんやりと数え、やがてあまりの虚しさにそれもやめた。一日がやたらと長く感じるのは一人になったからなのか、仕事をしていないからなのかわからない。
忘れたころに弁護士の名前で薄い封書が一通届いた。開封しないまま二つに破ると、封筒の隙間から小切手のかけらがこぼれ落ちた。無性に腹が立って、ラインハルトはそれを皿の上に置き、マッチで火をつけて灰になるまで燃やし尽くした。
だが、いつまでたっても悲劇に溺れているわけにはいかない。月末に家賃を取りに来た大家から「あんた、最近ずっと家にいるんじゃない?」と怪訝な目を向けられて、曖昧に笑ってごまかした。
「ちゃんと家賃を払ってくれれば、それでいいんだけど。こっちも楽じゃないんだから滞納とかはよしてくれよ」
「ご心配なく。払います、ちゃんと」
正直少しは安心した。勤務先に知られたくらいだ、もしかしたら誰かがラインハルトの性志向について、大家に進言していないとも限らない。店子が同性愛者だと知った大家から退去を迫られはしないかという不安を内心抱いていたから、その点に一切触れられなかったことにはほっとした。だからといって今のラインハルトに金銭的な余裕はなく、早急に仕事を探さなければ、近々退去を申し渡されることに変わりはないのだが。
街に出ては求人の広告を探して歩いた。中身なんてなんだっていいと思ってはいるのだが、いざ応募しようとするとどうしても腰が重くなる。性癖を理由に学校を馘になったことは思ったよりもこたえているらしい。
求人に応募したいと告げたら、相手が困ったような笑顔を浮かべ「いやあ、同性愛の方はね」と門前払いされる。そんな夢を毎晩のように見た。でも、そんな悪夢だって、ルーカスの夢を見た後の辛さに比べればよっぽどましだった。