Chapter 4|第59話

 出かけようとアパートを出たところで大家から声をかけられたのはしばらく経ってからのことだった。

「そういえば昨日、誰かがおたくの部屋の様子を伺ってたみたいだよ」

 無職の生活が続いていることが後ろめたくて顔を合わせたくないにも関わらず、ここのところ大家とはよく出くわす。もちろん不思議でもなんでもなく、ラインハルトが仕事に行かずに昼間からぶらぶらしているからに他ならないのだが。

 しかし今日に限っては、大家の言葉に思わずラインハルトは顔を上げる。誰か、という言葉に激しく胸が打った。

「誰かって、誰ですか? もしかして――」

 それは少し前までここに住んでいた少年じゃありませんでしたか。喉まで込み上げるが、すんでのところでこらえた。たとえ何の事情も知らない人間相手であっても、この期に及んでまだルーカスが戻ってくる期待を捨てられずにいるだなんて、そんな浅ましい気持ちを体の外側に漏らすことにはどうしようもない恥ずかしさと惨めさがある。

 もちろんラインハルトの内心になど気づくはずもなく、大家は軽く首を傾げる。

「さあねえ。あの植え込みのあたりでうろうろしながら、明かりがつくのを待つみたいに何度もあんたの部屋の窓を見上げてたんだよ。なんせもう暗かったから顔までは見てないよ。声をかけようにも不気味だしね」

「そうですか。あの、もしまた見かけたら……いや、なんでもありません」

 言葉を飲み込んだラインハルトに不審そうな視線を向けてから、重大な事実に思い当たったかのように大家は口を開く。

「あのさ、まさかあれ……借金取りじゃないだろうね」

「違いますよ! 借金なんてしていません」

 慌てて言い返すが、大家はそれでも疑わしげな表情のままで去っていった。結局は墓穴をほっただけ。この調子では一か月でも家賃の支払いを遅らそうものなら、すぐさま追い出されかねない。ラインハルトは大きなため息をついた。

 ただ建物の外から様子を伺っていただけならば、必ずしもラインハルトを訪ねてきた相手とも限らない。それどころかもっと不愉快な――例えば、明らかに口止め料と思しき小切手がいつまでも換金されないことに業を煮やした弁護士とか――最悪なパターンとしては、その代理として遣わされたオスカルということだってあり得ない話ではない。にも関わらず一番にルーカスを思い浮かべてしまうなんて、自分の愚かさに自嘲まじりの笑いが浮かぶ。

 とにかく仕事を見つけよう。倹約して、やがて資金が溜まれば何を置いてもまずは引っ越すべきだ。だって、ルーカスが二人だけの秘密基地と呼んだこのアパートメントにはあまりにも思い出が詰まりすぎている。それはラインハルトの人生の中で最も貴重で美しい思い出であるがゆえに、今では心を潰すほどの重石になっている。ここを離れない限り自分はいつまでもルーカスのことを忘れられないのかもしれない。

 売店で新聞を買い、近くのベンチに腰掛けると目を皿のようにして求人広告欄を眺める。しかし普段ならいくつかはラインハルトでも応募できそうな案件が載っているはずの紙面には、今日に限って会計士だとかタイピストだとか、とても手の出ない仕事しか見当たらない。金を無駄にしたことを馬鹿馬鹿しく思いながら新聞をゴミ箱に投げ捨てると、どこからか現れたくず拾いの老人がすかさずそれを持ち去った。

 いざ本気で仕事を探そうと決意すれば出鼻をくじかれる。どこまで自分の人生はついていないのだろう。そもそもこのご時世、まともな仕事なんてほとんどは人づてに決まってしまうのだから新聞広告や張り紙をあてにしている時点で分は悪い。家族とも疎遠で友人もいない孤独な人間は、こうしてどんどん世の中から疎外されていくものなのだろうか。

 やりきれない気持ちで歩いているラインハルトの目の前に、ふいに紙切れが差し出された。顔を上げると若い女性が微笑んでいる。

「この先の角にある画廊で、個展をやっているんです。お時間があればご覧になりませんか?」

 言われてみれば、差し出された紙には一面にウィーンの街並みを描いた版画のようなものが描かれていた。ざらざらのわら半紙に白黒で刷られたそれはひどくうら寂しく見える。ただでさえ暗い気分なのに、こんな陰鬱な絵など見たい気分ではない。しかも画廊などという金持ちのサロンのような場所、ラインハルトの人生とは一切縁がないものだ。

「いや、俺は絵心なんてないし、絵を買うような金もないから」

 そう言って断るが、意外にも女はさらに一歩にじり寄り、ほとんど無理やりに紙切れを手の中に押し付けてきた。

「まあ、そんなことおっしゃらず。普段はもっと大きなところでお金取ってやってるんですけど、今回趣向を変えて小さな画廊で小規模な無料展示をやろうって話になって、初日なんです。それが、ちょっと賞とって名が売れたからって調子に乗って事前告知もせずにいたら笑っちゃうくらいガラガラで、あわててガリ版でチラシ刷ってきたんですよ」

 口数の多さと軽い調子がなおさらうさんくさい。こんなの絶対に押し売りに違いないと何度も断ったのだが、満面の笑顔を浮かべた女は半ば無理やりに腕を引きラインハルトを角の画廊まで連れて行った。

「では楽しんで!」

 そう言って背中を押され、思わずラインハルトの足はドアの内側に踏み込む。

「あ、ちょっと!」

 抗議の声を上げようとしたが、身のこなしの素早い女は鮮やかに姿を消してしまう。後はしんとした画廊の中に、ラインハルトは数人の客とともに取り残されてしまったのだった。

 大家には借金取りに追われていると勘違いされるし、わざわざ買った新聞の求人広告は空振り。しかも変な女につかまって怪しげな画廊に押し込まれる。ろくでもない日だ。どうせ言われるがままにここで絵を見ていたら強面の画商とやらが現れて、絵の購入契約書にサインをするまで軟禁されてしまうに決まっている。

 敵に見つかる前に引き返す他ない――そう思って、きびすを返したそのときだった。画廊の入口すぐそば、他の作品と比べてもまったく目立たない場所にそっと飾られている小さな絵が目に入った。風景を描いた水彩画や版画が並ぶ中に、一枚だけ異彩を放っているそれは、簡素な木枠に入ったノートほどの大きさの素描だった。

 だが、ラインハルトの目はどうしようもなくその絵に引き付けられる。

 ベッドと小さなシェルフが置いてあるだけの小さなみすぼらしい部屋。そこに肩を並べて座るふたつの後ろ姿――ラインハルトは「そこ」を、「彼ら」を知っている。かつて「そこ」に何度も通い、繊細な思春期の心が揺れ動く中、どれほど「彼ら」に救われたか。そして彼らが次々と、何の言葉も残さず消えていったとき、どれほど傷ついたか。

 まさか、いったい誰がこんな絵を? 呆然と立ち尽くしていると、背後から豪快な笑い声が聞こえた。

「いや、たまにはほら原点に戻って地元でこういうことやりたいじゃん。でもやっぱり平日オープンの宣伝ゼロじゃ、俺みたいな売れっ子画家でも厳しいんだな。まったく芸術の都の名が泣くぜ」

「だからって、妹まで駆り出して怪しい押し売りみたいなことさせてるのか。本当におまえはどうしようもないな」

「今日だけだよ。すぐに口コミで入りきれないほどの客が……あ、おまえも友達に声かけろよ」

 どうやら笑い声の主はさっきの怪しい女の兄かつ個展の主催者――つまりのところ、ここにある絵の作者であるらしい。ということは、もしや。ラインハルトは恐る恐る振り返る。目が合った瞬間、一瞬何かを思い出そうとするかのように目をすがめ、それから栗色の毛を一つに束ねたそばかす顔の男は言った。

「あれ、おまえどこかで見たことある顔だな」

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