Chapter 4|第60話

 男に声をかけられた瞬間、ラインハルトはその場から逃げ出したくなった。あの客引きの女を無理やりにでも振り切って逃げなかったことを心の底から後悔した。

 確かに目の前の男にはなんとなく見覚えがあった。それこそ目の前にある素描に描かれている人物と一緒にいるところに何度か出くわした。人の姿を覚える能力には乏しいラインハルトだが、この男のそばかすや髪型、そして根っから脳天気そうな表情は印象的だ。もしかしたら絵を描いているというような話も聞いたような気がするが、本当に画家だったとは知らなかった。

「いや、あの」

 自分がこの男を知っているだけならまだましだが、問題はこの男がラインハルトの存在を記憶しているということだ。気まずさはもちろん、何となく不気味ですらある。第一、あの頃すでに大人だったこの男の風貌が変わっていないのは当然として、ラインハルトの外見はあの頃とはすっかり変わり果てている。何しろオスカルだって、顔を見ただけでは絶対に気付かなかったはずだと言い切ったくらいなのだ。なのに、この男は自信たっぷりにラインハルトに見覚えがあると言い出した。

「ひ、人違いだと思います」

 そう言って逃げるように立ち去ろうとするが、能天気な男はラインハルトの抱える気まずさになど一切配慮せず、まるで世紀の大発見をしたかのように嬉しそうな調子で続けた。

「ああ、そうだ思い出した。おまえ、親父とけんかするたびにあいつらのところに転がり込んでたガキだな」

 悪気のかけらもないのはわかるが、あまりに身もふたもない言い方だ。だが、男が十四歳のラインハルトと今のラインハルトを同一人物と認識していることは間違いなさそうだった。

 しらばっくれて立ち去るべきか迷った。しかし立ち止まって男と話をする気になったのはなぜだろう。オスカルに裏切られ、ルーカスを失い、少し人寂しい気持ちになっていたのかもしれない。ほろ苦い友情の思い出とはいえ「彼ら」の話ができる人間との再会に、ラインハルトは何らかの救いを求めていたのかもしれない。

「ええと」

 いざ返事をしようとして自分が男の名を知らないことに気付く。客引きの女から押し付けられたチラシはぐしゃぐしゃにしてポケットに詰め込んでしまったから、いまさら画家本人を前に取り出して名前を確かめるのも気が咎める。

 この男の個展なのだからどこかに名前のひとつも出ているだろうと、狭いギャラリーをきょろきょろと眺めまわすと、勘の良い相手は笑いながら手を出した。

「ああ、そうか。名乗ったことはなかったかもな。俺はハンス。見ての通り、絵描きの端くれだ」

 さっきの友人と思しき男との会話ではまるで自身を大画家のように語っていたハンスだが、ろくに知らないラインハルトに名乗るとなれば、さすがに少しは謙遜するようだ。人懐っこい笑顔にはどこか他人をほっとさせるような雰囲気があり、ラインハルトもおずおずと手を出す。

「俺は、ラインハルトです」

「そういえばなんか、そういう名前だったっけ。おまえの親父とあいつらの下宿の婆さんが、同じ教会に通ってるとか聞いた覚えがあるな」

 小さくごつごつした手で痛みを感じるほどきつい握手をされ、画家というのはこんなにも力強い手をしているのかと漠然と考えた。

 簡単な自己紹介を終えると、何を話せばよいのかわからなくなる。もともと人付き合いは苦手だし、よく知らない相手と必要以上の雑談などしたことはない。ここ最近は大家に呼び止められたとき以外ほとんど声すら発しない生活だったから、今こうしてハンスと話をしている、自分の声は不自然にさび付いているようにも感じる。

「え、と……」

 うまく言葉が継げず、早くも立ち止まったことを後悔しはじめたところで、ハンスが顎を軽くしゃくって、ラインハルトがさっき食い入るように眺めていた絵を示した。

「おまえ、あれ見てたんだろ」

 もしかしたらハンスは外見でラインハルトを見分けたのではなく、あの絵をじっと見ていたからこそ、描かれている彼らと関係がある人間に違いないと判断したのかもしれない。そんなことを考えながらラインハルトは曖昧に首を縦に振った。

「ええ、懐かしいなって……」

 十四歳のラインハルトが、レオとニコと名乗る青年たちに出会ったのは、オスカルと抱き合っている場面を父親に見つかり、ひどく叱られている最中だった。真冬の夜であるにも関わらず、嫌がるラインハルトを引きずって教会へ懺悔に連れて行こうとする父親を、通りすがりの見知らぬ兄弟が諫めてくれたのだ。

 それからラインハルトは、ことあるごとにレオとニコの住む半地下の部屋に通うようになった。ラインハルトに同情的なのは、兄のレオ。鳶色の髪に緑の目を持つ長身の男で、比較的愛想は良かったが戦争の古傷に苦しんでいた。弟のニコは兄とは対照的に小柄で、口数少なく、いつもどことなく悲しそうな目をしていた。兄弟ふたりの生活の場に入り込んでくるラインハルトを警戒している様子はあからさまで、冷たい態度を取られるのが癪で、ラインハルト自身もニコに対しては頻繁に憎まれ口を叩いていた気がする。とはいえ、本当に辛いときには無理やり追い出すようなことはせず受け入れてくれたから、今となってはニコだって根本的には優しい人間だったのだと思う。

「あそこに押しかけては、子どもらしい馬鹿みたいな悩みや、夢みたいなことをレオに話していたんです。いつもニコには迷惑そうな顔されて」

 するとハンスはまた笑う。

「はは、おまえでもそんな扱い受けてたのか。でも俺なんか嫌われすぎて、ニコがいる間はあの部屋に入れてもらえもしなかったよ。まあ、あんなじめじめした辛気臭い部屋行きたくもなかったけどな」

 ラインハルトは少し驚いた。ハンスの素描は、レオとニコが肩寄せ合って暮らしていたあの部屋そのものだったし、並んで座る二人の後ろ姿も、思い出の中から抜け出してきたかのようにあの頃のままだ。

「そうなんですか? まるでその場を見ているようですよ」

「そうか、じゃあ、俺の想像力も捨てたわけじゃないってことだな。あーあ、しかし俺も割と良くしてやったつもりなんだがなあ。部屋に入れてもらえてたならおまえの方があいつらに信用されてたんだな」

 冗談めかした言葉だが、ラインハルトは思わず厳しい声を返してしまう。

「まさか」

 小さな部屋で、言葉少なに、それでもいたわりあって暮らす二人。彼らは兄弟だと言っていたが、ラインハルトには血縁以上の強い絆で結ばれているように見えた。だからどんなにみすぼらしくて、狭くて薄暗くても、彼らの暮らす部屋は憧れの対象だった。

 運命のような絆で深く結ばれた二人がそっと暮らす場所。幼いラインハルトにとって、その部屋はどうしようもなくロマンチックに映った。ルーカスがラインハルトの部屋を二人だけの秘密基地と呼んだときに喜びを感じたのは、少年のころ憧れていたレオとニコの部屋のような場所を自分も作れたと思ったからだ。

 でも――秘密基地なんていつだって、ちょっとしたことで壊れてしまう。