Chapter 4|第61話

「まさか、信用なんてされてませんよ。ただ、かわいそうな子どもだって思われていただけです」

 ラインハルトが思わずそうつぶやくと、ハンスは驚いたように軽く目を見開いた。

「そうか?」

 その反応に、さっき口にした言葉はハンスにとってはただの軽口で、彼自身はあの二人から信用されているかどうかをさして気にしていないのだと気付く。こんなことに本気になって感情的な物言いをするなんて、この器用そうな男からすればいかにも対人関係が未熟な人間に見えるに決まっている。恥ずかしさで耳たぶが熱くなった。だが、一度口に出したことの引っ込みがつかないラインハルトは、さらに恨み言を続ける他にない。

「……だって、信用していたなら、友達だと思ってくれていたなら、何も言わずにいなくなったりなんかしないでしょう」

 ある日、ニコがウィーンから姿を消した。世話になった大家どころか兄であるレオにも行き先を告げないまま、突然の失踪だった。それをきっかけにレオはふさぎ込むことが増え、心配したラインハルトが訪問しても心ここにあらずの反応を示すようになった。

 もちろんラインハルトだって、レオにとって自分とは比較にならないほどニコが重要な存在であることは百も承知だった。しかし、目の前にいるのに見えていないかのように振る舞われ、話しかけても生返事しかない、そんなやり取りにはどうしたって傷ついてしまう。居心地の悪さからレオを訪ねる回数は徐々に減り、そんな中やがて成長期を迎えたラインハルト自身も外見への劣等感から他人と距離を置くようになった。

 レオもウィーンからいなくなったと聞いたのは、ある晩の食卓でのことだった。父が教会で噂を聞いてきたのだ。

 ――教会の未亡人のところにいたユダヤ人の男、突然いなくなったらしいぞ。前に一人いなくなったときと同じように書き置きだけ残して、挨拶のひとつもなかったようだ。俺はユダヤ人には同情的だが、あの兄弟だけは最初から虫が好かなかったんだ。案の定、無礼な奴らだったってことだな。

 そう言いながら父はどことなく嬉しそうで、勝ち誇ったように話しながらラインハルトの方を横目でちらりと見たのは気のせいではないはずだ。父はずっと、レオとニコから度を過ぎた躾についてとがめられたことを根に持っていたから、彼らが恩知らずの失礼な人間だという証拠をつかんだことが楽しくてたまらないのだ。

 だが、ラインハルトには父の態度などどうだってよかった。ただ、すでに疎遠になっていたにも関わらず、ニコだけでなくレオまでも自分に何の連絡もなく姿を消したことに密やかに傷ついた。シュルツ夫人がなぜ彼らを責める言葉を口にしないのかも理解ができなかった。

 そんなことを思い出して苦い思いにうつむくラインハルトを、ハンスは気にも留めない。

「それとこれとは別だろ」

 あっさりとそんな言葉で、ラインハルトの心のしこりすら否定する。

 シュルツ夫人にすら何も告げなかったのだから、レオとニコはハンスにもウィーンを去ることを黙っていたはずだ。なのに、この画家の男は友人たちの非礼にも一切傷ついた様子など見せない。もしかしたら世間ではハンスのような反応が普通なのか、ラインハルトは自意識過剰を指摘されたようで、居心地の悪さを感じる。

 そんなラインハルトの気持ちを知ってか知らずか、ハンスはゆっくりと視線を逸らし改めて壁の素描を眺める。懐かしそうな目で、少しだけ、悲しいものを見るような目で。

「どれだけ信頼していても、好きだったり、感謝していたりするからこそ言えないことだってあるだろう。まあ、それにあの頃のあいつらはお互い以外のことを考える余裕なんかなかっただろうからな。仕方ないさ」

 根っから明るく能天気そうなハンスが束の間見せた影。それに促されるように、ラインハルトは薄々勘づいていたことを口にする。

「……やっぱり、彼らは訳ありだったんですね」

 人目を避けるようにウィーンの街で暮らす、収容所から解放されてきたというユダヤ人の兄弟。そして、彼らは行方を告げることなくひとりずつ消えていく――そこに何らかの事情があることくらい子どもにだってわかる。ただ、当時のラインハルトは自分自身の悩みに精一杯で、彼らの抱えるものにまで気を配れずにいただけだ。

「そうみたいだな」

 珍しく答えを濁すハンスに、ラインハルトはふとした疑問を口にする。

「あなたはもしかして、今彼らがどこで何をしているか知っているんですか」

「ああ」と、ハンスは白い歯を見せた。

「あいつらは今、一緒にいるよ」

 それはきっと、ラインハルトにとっても望んでいた答えだった。

「そうですか。良かった」

 憧れていた二人が、きっと強い絆で結ばれているのだと思っていた二人が、離ればなれのときを経て今はまた一緒にいる。それは不幸のどん底にある今の自分とは対照的な夢物語で、旧友の幸せを喜ぶ気持ちと同時にちょっとした嫉妬心のようなものが胸を焦がす。その妬ましさを、ラインハルトは自分なりの軽口の中に気付かれないよう滑り込ませたつもりだった。

「そう聞いてしっくりきましたよ。俺には事情はわからないけど、あの頃から何となくレオとニコからは強い絆というか、運命みたいなものは感じていたから。……ちょっと羨ましいような気もしますね」

 しかしそれに対するハンスの返事は柔らかさの中にほんのわずかだが咎めるようなニュアンスを含んでいた。

「どうだろう。俺はあいつらには、運命なんて軽々しい言葉は使いたくないな」

「軽々しい?」

 思わず聞き返したのは、運命という言葉が軽いだなんてラインハルトは考えたこともなかったからだ。

 運命というのは何より重く、抗うことができないもので、だからこそラインハルトは運命の恋人というものに憧れてきた。それがオスカルであれば良いと、それがルーカスであれば良いと強く願い、しかしいつだって叶わなかった。一度は離ればなれになってしまうほどの事情がありながら、それでも今は一緒にいるというレオとニコの成り行きを運命と呼ぶことの、何が軽々しいのだろう。

 ラインハルトの質問に、ハンスは首を振って答えた。

「もし運命なんてものがあるなら、そいつはひたすらあいつらを引き裂いてばらばらにしようとしていたんじゃないか。でも奴らはそれに抗って抗って、命を懸けて戦って今がある。俺にはそう思えるんだ」

 ラインハルトは寄り添って立つレオとニコの姿を思い浮かべた。彼らを最後に見たのはもうずいぶん昔のことだから、映像は少しぼやけている。あの頃の彼らの、何かから逃げているような、いたわりあいつつもどこかお互い距離を測っているような不思議な空気。そこには何らかの事情が関係していて、今の彼らはそれを乗り越えた先にいるというのだろうか。

「ハンス。あなたはレオとニコの抱えていた事情を知っているんですか?」

 ハンスはうなずく。

「すべてを知っているわけじゃないけど、部分的には。おせっかいだと嫌がられて拒まれて、それでも追いかけた末にな」

 だとすれば、ハンスもきっと「戦った」のだろう。彼が信じた友情を貫くために、黙って消えた友人を追いかけ、追いすがり、拒まれてそれでも――。

 人と人との関係は、そうまでして築くものなのだろうか。傷つくことを避けるのではなく、運命の相手を待つのではなく。それは、自分の外見に失望されることを恐れてオスカルへの連絡を絶ち、これ以上傷つけることや傷つくことを恐れてルーカスを突き放したラインハルトが一度も持ったことのない、理解することすら困難な気持ちだった。

「あの、彼らは――」

 レオとニコの抱えていたものを知りたいと思った。彼らは何と戦い、何に傷つき、どうやってそれを乗り越えたのだろう。ハンスの言うように運命がレオとニコを引き離そうとしていたならば、それほど大きなものに抗おうとする力の源は一体なんだったのだろう。それを知ることができれば、もしかしたら自分だって変わることができるかもしれない。

 だが、ハンスは小さく笑うと一言「それはいつか、自分の口で聞くんだな」とだけ告げて、小さなノートを差し出してきた。

「これは?」

「今回の個展の来場者リストだよ。電話番号か、電話がなけりゃ住所でも書いていきな。次の個展の連絡……には興味ねえだろうけど、まあ、なんかの役に立つかもしれないだろ。目下は俺の飲み友達ってことでもいいし、まあ連絡するよ」

 開かれたページには、すでに数人分の住所氏名が書き込まれている。ハンス自体は悪い人間ではなさそうだが、突然飲み友達などと言われても困る。迷いはあったものの、万年筆を押し付けられたラインハルトは結局押しの強さに負けて、ノートの空白に住所と名前を書き込んだ。

 画廊を出ていこうとするとき、ハンスが後ろから思い出したように声をかけてきた。

「そういえばあいつらも、いつかまたウィーンに来たいって。不義理はしまくってるんだから、謝罪行脚くらいしてもらわなきゃ困るって俺も言ってやったけどな。なあ、ラインハルト、そのときはおまえにも声かけてやるよ」

 切れた糸は戻らない。でも、もしかしたら終わってしまったと思った人の縁は、再び繋がることがあるのかもしれない。そのために必要なのはきっと運やタイミングだけではなく、どうしてももう一度繋がりたいという、あきらめたくないという気持ちや行動。

 ラインハルトは振り返り、ハンスに向かってはっきりとした声で「はい、お願いします」と答えた。