Chapter 4|第62話

 ラインハルトの抱える問題は何ひとつ解決していないし、置かれた状況はまったく変わっていない。それでもほんの少しだけ心が軽くなったような気がするのは、あのハンスという男が持つ根っから明るく前向きな空気に当てられてしまったのかもしれない。

 これまでの自分は臆病すぎたのだろうか。人とのつながりというのは、ときに拒絶されて傷ついて、それでも追いすがるようなものなのだろうか。その答えはラインハルトにはまだよくわからない。ただ、もう二度とないだろうと思う反面、もし万が一、次に誰かを好きになるようなことがあれば……もう少しだけ自分に正直になって勇気を出してみようかとも思った。

 一日過ぎるごとに痛みはいくらか和らぐ。かと思えばちょっとしたことで傷が開きそうになる。それでもこうやって、ただ生き続けることでいつしか救われるものなのだろうか。ルーカスが手当してくれた傷も次第に癒えていく。しかしそれは同時にラインハルトの体に唯一残ったルーカスとの接点が失われていくようで、ひどく悲しくもあった。

 あまりにも汚れてしまった包帯を、未練を断ち切ってようやく外したその日のことだった。予期せぬ人物がラインハルトの部屋を訪れた。ノックの音に、わずかに緊張しながら「誰?」と答える。

「俺だ」

 その声に、ラインハルトの全身に戦慄が走る。返事をしたことを後悔した。居留守を使うべきだった。まさか――父親がここを訪れるなんて、思ってもみなかったのだ。

「いるんだろう、ラインハルト。ここを開けろ。どうしても開けないというなら、大家を呼ぶぞ」

 威圧的な声に否応なしに背筋がすくむ。もちろんラインハルトがここに住んでいることを家族は以前から知っているが、これまで誰ひとりここを訪れることはなかった。母や姉はラインハルトが家族と距離を起きたがっている気持ちに配慮しているのかもしれない。父は――忌むべき同性愛者である息子にわざわざ会いに来るはずなど決してない。だから、その父がここに現れるというのはよっぽどの事態なのだ。

 背中を冷や汗が伝い手が震える。叱られて仕置きを待つ小さな子どもになったような気分でラインハルトは渋々ドアへ歩み寄り、ひとつ深呼吸してからかんぬきを外す。

「……父さん、一体何しに」

 怖くて正面から顔を見ることができない。平日の昼間にラインハルトが家にいることを知っているということは、要するに父は息子が職を失ったことを知っているのだろう。それはつまり――。

「失望したぞ。あの子どもを預けるときに釘を刺したはずだ。ハウスドルフさんも喜んで感謝してくれていたから、ようやくおまえも真っ当になったのだと安心していたのに、まさかよそ様の子に……」

 父は深いため息を吐いた。やはり、ことの次第はルーカスの親類経由でラインハルトの父にまで伝わっていたのだ。

 ラインハルトは唇を噛む。まさかよその子どもに手を出すようなことはしないだろう、最初にルーカスを預かるとき父は確かにそう言った。父にとってルーカスは生け贄、もしくは踏み絵だった。同性愛者で、もしかしたら小児性愛者であるかもしれない呪われた息子に残された理性を確かめるための、あまりに残酷なテスト。

 あのときのラインハルトは、自分は確かに同性愛者だが小さな子どもに手を出すような人間ではないと思っていた。だから父親に対する反抗心もあってルーカスを引き取ることにしたのだ。だが――結果はこの有り様。小児性愛者というのは誤解であるにしても、ラインハルトがルーカスに恋愛感情を抱きルーカスの性癖をも歪ませたというのは、言い訳しようのない事実だ。

「……ごめんなさい」

 ラインハルトは小さな声で謝った。

 父は自分を殴るだろうか。引きずって教会に連れて行って、無理やり懺悔をさせるだろうか。幼いあの日のように。だが、父はもう一度長いため息を吐くと腕に抱えた大きな袋を床に投げ出した。倒れた袋からいくつかの缶詰が転がり出る。

「父さん、これ……」

 思わず拾い上げた袋の中には、食料品がいっぱいに入っていた。もうしばらく口にしていない、父手製のパンが入っているのも見えた。

 ラインハルトには父の真意がわからなくなる。父は、ラインハルトが性志向を理由に職場を終われたことも、ハウスドルフ氏がラインハルトの悪影響を気にしてルーカスを連れ戻したことも知っているはずだ。いつもの父ならば怒り狂っていておかしくない。なのになぜこんな差し入れを持ってここに現れたのだろう。

「仕事のことは聞いた。楽な暮らしをしていないだろうこともわかっている。昼間から家にいて、どうせまだ新しい仕事も決まっていないんだろう」

 図星を突かれ、ラインハルトはただ黙り込む。父もしばらく黙っていた。そして、思い切ったように口を開く。

「いいかげん、目が覚めたか」

「え?」

「気が済んだだろう。同性愛だなんだとふざけていたら人生を駄目にしてしまうということを、いくらおまえだって思い知っただろう」

 腕の中にある差し入れの袋の重さ。これが父の情けで、息子への愛情であることはわかる。ラインハルトはずっと自分の性向と家族や宗教との狭間で苦しんでいた。同じようにきっと父も、信仰や理想の家族像と、思いもよらない過ちに走った息子とのギャップに苦しんでいた。だから、これが父なりの譲歩だということはわかっている。

「なあ、ラインハルト。おまえはまだ若い。今きちんと懺悔して、これから真っ当に生きると誓えば、やり直せる。だから戻ってこい。心を入れ替えるのならば俺のパン屋を手伝えばいい。そのうちいい嫁も見つけてやる。なに、これまでのことは若気の至りだと言って信仰に励めば、皆きっとわかってくれる――」

「やめてくれ!」

 ラインハルトは思わず叫んだ。

 父は自分を愛してくれている。でも、その愛は決してラインハルトを救わない。

「父さん、何を言ってるんだよ。同性愛者の作ったパンなんか、どこの誰が買うっていうんだ。俺が手伝えば店はお終いだよ」

 一気に感情がほとばしる。ラインハルトは大きな声で父に向かって訴えた。

「何度言えばわかるんだ、父さんは誤解しているよ。俺が同性しか愛せないのは病気なんかじゃない。最初からそんな風に生まれついて一生変わらない。決して治ったりしないんだ」

「ラインハルト、その思い込み自体が悪魔に……」

「悪魔憑きだっていうなら、それでもいい! でも、だったらどんな神父でも、どんな聖人でも、俺の悪魔は払えない。俺は死ぬまで悪魔に憑かれたままだ」

 父の顔から血の気が引いていく。両の手をだらりと体の横に垂らして、大きな体躯は妙に弱々しく今にも倒れてしまいそうだ。オスカルと抱き合っていたラインハルトを殴り、教会まで引きずって行ったあの頃と比べれば父も老いた。そう思うと胸の奥から罪悪感が込み上げる。

「父さん、ごめん」

 絞り出す声は、震える。自分がどれだけ親不孝者なのかはわかっている。ラインハルトだって、できることならば父の理想の息子になりたかった。

 幼い頃、正義感が強く力持ちで、誰より美味しいパンを焼く父はラインハルトにとってのヒーローで、いつか父のようになりたいと思っていた。もしも自分が普通の男として生まれついていたならば、きっと父の仕事を手伝い、パン屋を手伝ってくれる気のいい娘と恋に落ち、嫁にもらい、今頃孫の姿も見せてやれていたのかもしれない。でも――。

「ごめん、ごめん。父さん、でもどうしても俺にはできないんだ。父さんの理想の息子になることはできない。家族や世間体のために自分を偽って生きることはできないんだ。だから俺のことは忘れてくれ。こんな息子いなかったと思って……もう放っておいて」

 涙がにじむのを見られたくなくて、再びラインハルトは下を向く。

 父は自分にひどいことをした。でも、今、父の仕打ち以上にひどいことをやり返している自覚はある。きっとこれはとても滑稽なこと。オスカルも、ルーカスもいないのに。誰ひとりラインハルトのそばには残らないのに、なぜこの期に及んで親を悲しませてまで歪んだ性癖を貫こうとしているのだろう。それでも、どうしても、これ以上嘘をつきたくない。

 深い、悲しみに満ちた吐息がひとつ。

「俺が間違っていたんだろうか。気づかないうちにひどい罪を犯して、だからおまえがこんなことに……」

 絶望したようにつぶやく父に向かってラインハルトは必死にかぶりを振った。これは父のせいではない。神様のせいでもない。きっと、誰のせいでもない。

 やがて父はあきらめたようにラインハルトへ背中を向けた。毎日粉をこね続ける力強い父の背中は、丸く小さくなったように見えた。

「父さん……本当にごめんなさい。でも俺には他の生き方はできないんだ」

 背中に向けて、もう一度謝る。しかし父はもう振り向かない。扉が閉まると同時に、低く小さなつぶやきが聞こえた。

「……もう、ここには来ない」

 深い絶望が込められたその言葉にラインハルトは安堵し、それから少し泣いた。