寂しさ、申し訳なさ、そしていくばくかの爽快感。父の背中を見送った後の感情を表すならば、こんなところだろうか。
思えばこれまで、正面から自分の気持ちを父へ告げたことがあっただろうか。ラインハルトがオスカルのことをどう思っていたか、自分の性的指向をどう捉えてどう悩み、どう向き合うつもりなのか。もちろん告げたところでおそらく父は聞く耳をもたなかっただろう。でもそれでも家族として自分の正直な気持ちを伝える努力、理解してもらう努力をすべきだったのかもしれない。
いつだって逃げてばかりだった。厳しい現実と向き合うことからも、決定的に傷つくことからも逃げて、そのくせいつの日か降ってわいたような幸せに包まれて、何もかもがうまくいく日がくるのではないかと妄想していた。そんな都合の良い話、あるはずもないのに。
こんな風に生まれついたから、こんな外見に育ってしまったから、どうせ思うようにはならないだろうから。傷つかないよう先回りしてあきらめて、でもその結果、何を手にしただろう。この手の中はただ、空っぽだ。
父とはきっとわかりあえないだろう。わかりきっていたその事実を、今日やっと正面切って確認することができた。きちんと自分の言葉で、自分の思いを伝えたことはきっと第一歩。もう家族や教会や髪の色、体型なんかを言い訳に逃げることはやめにしたい。そして、自分にも他人にもちゃんと向き合って生きていきたい。
あんなやり取りの後なので捨てるべきか悩んだが、結局父が持ってきたパンは食べることにした。世界一美味しいこのパンをもう何年も食べずにいた。そしてもう二度と口にすることはできないかもしれない。だから一口ずつしっかり噛みしめて懐かしい味を心に焼き付けた。
仕事が決まったのは、その翌週のことだった。
新聞の求人欄の片隅に出ていたのは、市内にある病院の入院施設での住み込み雑役夫の仕事だ。昼間は掃除や雑用、夜中や人手の足りない時間帯は入院患者の介助に近い仕事も多少はやらなければならないのだというが、大体はこれまで小学校でやってきた仕事内容と変わりがないようだった。
経験したことのある仕事と近いこと以外に、興味を引かれた理由は二つある。ひとつはその病棟が長期入院の高齢者を主な対象としていることだ。児童性愛を疑われて学校の職を追われたことはラインハルトの心に傷を作っていた。いくら誤解だったとはいえ、自分の過去を思えばそういった疑いとできる限り無関係な仕事を選びたいと思っていた。
もうひとつは、それが住み込みの仕事であることだった。病棟の片隅にある小さな炊事場付きの部屋に格安で暮らすことができるし、希望すれば職員向けの食堂で食事をとることだってできる。それは、少しでも早くルーカスの面影の詰まったこの部屋を離れたい今のラインハルトにとっては理想的な環境だった。
新聞の切り抜きを手に現れたラインハルトを見て、面接担当の初老の女は少し面食らったように、本当に仕事内容を理解しているのか何度も繰り返し確認した。
「珍しいわね、こういう仕事って、あなたみたいな若い男の子が希望してくるものじゃないと思うけど」
うさんくさそうな目で見られて、きっと訳ありの人間だと疑われているのだろうと居心地が悪くなった。世慣れているわけではないし、そもそもあまり病院というものに行ったこともないから、ラインハルトは病棟の雑役夫へのイメージを具体的には持っていなかった。だが、言われてみればこういった地味な汚れ仕事は普通もっと年を取った人間がやるものなのかもしれない。
「以前、学校で用務員をやっていたので……こういった仕事は慣れているかと」
緊張で声は喉奥に半分張り付いたまま。きっとラインハルトの動揺は女にも伝わっているだろう。過去の職歴を話すことで背景を勘ぐられてしまうのではないか。前の仕事を辞めた理由を聞かれたらなんと話そう。頭の中では不安ばかりがぐるぐると駆け巡る。
女はしばらく、手元のファイルとラインハルトの顔を何度か見比べて、それから少し待っているように言い残し、部屋から出て行った。誰かにこの奇妙な求職者について相談しに行ったのかもしれない。
五分、せいぜい十分だっただろう。しかし限界まで緊張しているラインハルトにとっては永遠にも近い長さに感じられた。そして、場違いな面接に来てしまったことを後悔し、もうこのまま帰ろうかと思いはじめた頃、女が戻ってきた。
「……そうね。明るい仕事でもきれいな仕事でもないから若い子はすぐ辞めちゃいそうで心配なんだけど、体力がありそうなのは助かるわ」
遠回しな言葉の意味するところを図りかねるラインハルトに、続いて女は「で、いつから来られるの?」と訊ねた。それが採用決定通知だった。
今暮らしている部屋の始末に三日ほどの期間を見て、病院での仕事は翌週から開始することにした。給料は小学校よりもさらに安いくらいだが、家賃も食費も格安なのだから、遊び歩く趣味もないラインハルトにとっては不便はない。
ようやく生活のめどが立ったことへの安心と、新たな環境へ身を置くことへの不安がないまぜになった気持ちで帰りの道のりを歩き、アパートメントに着くと自分の部屋に戻る前に一階にある大家の部屋をノックした。退去したいとラインハルトが告げると、大家は理由を聞くことも引き留めることなくうなずいた。仕事もなくいつまでまともに家賃を収めるかわからない店子が出ていくと言い出したのだから、大家にとっては望んでもない幸運に決まっている。
「言っておくけど、月の途中で出ていくからって今月分の家賃を一部返すとかはないから。契約は契約だからね。あと、部屋はきちんと掃除はしてから出て行ってくれよ」
「わかっています。鍵は日曜日に返却しますから」
小さな部屋とはいえ長く暮らしたので多少の荷物はある。三日間で片付けを済ませることを考えると大家の長話に付き合わされるのも時間の無駄だ。ラインハルトがそそくさと立ち去ろうとしたとき、大家がふと思い出したように言った。
「そうだ、いなくなるならいなくなるで、ちゃんとその話、借金取りにもしておいてくれよ」
「あの、誤解です。僕は借金なんて……」
していません、という返事をさえぎるように、大家は通りの方に目をやって大きなため息をつく。
「あの後も何回も見たんだよな、変な人影。夜に限って、気持ち悪いったらない」
結局、話はそれで終わった。思い込みの激しい男にいくらラインハルトが身の潔白を申し立てたところで、きっと信じてはもらえないだろう。どうせ去りゆく身なので、ここでむきになって誤解を解く必要はないだろう。だからラインハルトはそれ以上大家に言い返すことはせず、黙って扉を閉めた。
しかし、大家の話は奇妙ではあった。ラインハルトはてっきりアパートメントの外から自室の様子を伺っていたというのは、父なのだと思っていた。あんな性格の父だから、ここに来るまでにずいぶん迷いがあったに違いない。ラインハルトの部屋の窓を見上げては、何度も引き返していたのだろうと。
もしもそれが父でないとすれば――だが、それ以上考えることはやめる。
きっと、そんなことを考えても意味などない。自分は三日後にここを出ていく。そうすればきっと、オスカルのことや、ルーカスのことや、思春期から十年近く引きずり続けたいろんなことに、今度こそ少しだけ区切りをつけられるはずだ。