Chapter 4|第64話

 翌朝からラインハルトは本格的に引越しの準備に取りかかった。引越し先である病院の宿直室はここよりもずっと狭いので、持って行ける荷物は限られている。まずは寝室、リビング、キッチンからバスルームをぐるりと歩き回り、おおまかに処分すべき物の見当をつける。幸い家具は元々の備え付けなので、ラインハルトが自身の責任において処分しなければいけないのは雑多な品々ばかりだ。

 最低限の衣類とタオルなどの洗面用具、ケトルとカップのひとつでもあれば生活には十分だと判断する。寝室の隅に長らく置きっぱなしにしてあった旅行かばんを取り出し、手当たりしだいに必要な物を投げ込んでいった。

 寝室の片付けをしているうちは良かった。リビングのシェルフに何気なく歩み寄り、しかしラインハルトはすぐに伸ばした手を引っ込める。

 正式に同居するようになって数ヶ月が経った頃だったか、ラインハルトはルーカスにそのシェルフを自由に使っていいと許可を与えた。それまでルーカスの私物は遠慮がちに部屋の隅に置いたかばんの中に収められていて、学用品なども使った都度きれいに片付けていた。彼は彼なりに、ラインハルトの生活を乱さないよう細心の注意を払っていたのだと思う。

 空いている棚だから好きに使っていいと声をかけたとき、ルーカスの顔がぱっと輝いたことを覚えている。嬉しさを隠しきれない様子で、それでも「でも、悪いよ」と一度は断ってみせる姿を健気だと思った。後になってルーカスは、自分専用の場所を与えられたことでこの部屋での生活を改めて許されたようで嬉しかったのだと照れくさそうに告白した。そんなことを思い出すといまさらながら胸が締めつけられた。

 シェルフを開ける手を止めたのは、その中が空になっているのを目にしたくないからだ。あきらめたつもりで、思い切るためにここを出て行こうとしているのに、ふとした拍子にまだルーカスへの心を残している自分を思い知らされる――ラインハルトは唇を噛みしめた。

 そのときだった。ノックの音がした。遠慮がちな、小さな音。

「……?」

 ラインハルトは扉を振り返る。誰だろう。父親はもうここには来ないと言った。大家だとすれば、名前を呼びながらもっと無遠慮に大きな音を立てて扉を叩くだろう。しかも音はそれきり止んで、部屋には静けさが戻った。

 もしかしたら、隣の部屋の客人のノックを聞き間違えたのかもしれない。そう思って再びキッチンに向かおうとすると、またもやコツコツと、さっきよりは大きな音がした。

 ラインハルトは足を止める。誰かがこの部屋の扉を叩いていることは間違いない。でも、たとえそれが誰だったとしてもラインハルトにとって歓迎すべき相手ではない。だって今のラインハルトには会いたい人間など誰ひとりいない。誰ひとり、いない。

 今度は間を空けず、三度続けて扉が叩かれる。ラインハルトの感情はかき乱された。

 ――嘘だ。

 会いたい人がいないなんて、嘘だ。

 本当はルーカスに会いたい。今もルーカスがここに戻ってくるんじゃないかという期待を捨てられずにいて、そんな自分が惨めでたまらないからこそ引っ越しを決めた。でも、もしここへルーカスが現れたとしてもラインハルトに出来ることは拒むことだけで、それは結局のところ傷をより深くすることに他ならない。

 ラインハルトは息を殺した。そこにいるのが誰であろうと、この扉を開ける必要はない。この扉は決して開いてはいけない。少しの間黙っていればきっと立ち去ってくれる。だが、ノックの音が止んだ後で聞こえてきたのは、そこから立ち去っていく足音ではなかった。ドアが軋む音に、ラインハルトは自分が迂闊にもかんぬきを掛け忘れていたことを思い出した。

 ぎぃ、と音を立てて扉が開く。そして、恐怖で振り向くことが出来ないラインハルトに向かって闖入者はためらいながら声をかけた。

「ラインハルト……」

 それは、ラインハルトが心の奥底で望んでいた声――ルーカスではない。父でもなければ大家でもない。ルーカスの叔父でもなければミュラー弁護士でもなかった。

「鍵がかかっていなかったから、いるのかと思って。勝手に開けてすまない」

 低い、戸惑いをはらんだ声。この間会ったときに聞いた声色とは全然違っているが、そこにいるのが誰だかはわかってしまう。どうして今になってこんなところに来て「すまない」などと言うのだろう。頭の中をよぎるのはいくつかの選択肢。逃げ出すか、怒鳴りつけて追い返すか、それとも……。

「いや、別に」

 ラインハルトはそう言ってゆっくりと振り返った。

 目の前には、ひどく気まずそうな顔をしたオスカルが立っていた。ラインハルトと視線が合うと、いたたまれないように目を逸らす。唇の端には怪我でもしているのか小さな絆創膏が貼られていて、身なりの整った男には不似合いだ。

 初恋の相手にこっぴどく振られた挙句、児童性愛者ペドフィリアの烙印を押された。それどころか彼の密告のせいでラインハルトは職場を追われ、ルーカスとの生活すら失ってしまった。しかし不思議とこうしてオスカルを目の前にしても怒りも悲しみも湧いてはこない。

 オスカルはラインハルトと視線を合わせないようにうつむきがちに、ゆっくりと室内を見渡した。乱雑に散らばった荷物、部屋の真ん中に広げられた旅行かばん。何をしようとしているのかはわかってしまう。

「……出ていくのか?」

 そう訊かれてラインハルトは首を縦に振る。

「新しい仕事を見つけたから。住み込みなんだ」

 責めるつもりはなかったが、結果的にはそう受け止められたのかもしれない。オスカルはため息を吐いて、目を眇めた。

「俺のせいだな」

 ラインハルトはオスカルの言葉を肯定も否定もしない。

 複雑な気持ちだった。もちろんオスカルの言葉には傷ついたし、彼の密告で多くのものを奪われた。しかし、オスカルとの再会があろうとなかろうとルーカスとの生活はどのみち近い将来に破綻していただろう。むしろ踏みとどまれるぎりぎりのところでルーカスと引き離してもらえたという意味では、オスカルの行為は間違っていなかったかもしれないとすら思う。

 ふたりは部屋の中で、黙って向かい合ったままでいた。先に動き出したのはオスカルだった。一歩踏み出すと握りしめた手を差し出す。その行為の意味がわからず戸惑うラインハルトに向けて、ゆっくりと拳を開いた。

 オスカルの手のひらの上には、キラキラと光を放つ、金色のネックレスがあった。

「それ、どうして」

 ラインハルトは驚きの声を上げる。オスカルと一緒に初恋の証として買った揃いのネックレス。オスカルはそれをずっと昔に失くして存在すら忘れてしまったのだと言った。そして、ラインハルトが長い間大事に手元に持っていた方はルーカスが窓の外へ投げ捨ててしまった。それが、なぜここに。