Chapter 4|第65話

 ここにオスカルがやってくる理由も、彼がなぜあのネックレスを手にしているのかもわからない。ラインハルトは狐につままれたような気持ちでオスカルの差し出しているものを凝視するが、それはあの揃いで買った十字架のネックレスに間違いなかった。何年も手元に置いて朝晩眺めていたラインハルトが見誤るはずはない。

「この間の話は半分嘘だ」

 呆然と立ちすくむラインハルトに向かって、オスカルは気まずそうに口を開いた。

「半分、嘘?」

 オスカルは態度同様に言っていることもはっきりしない。一体何が嘘で、しかも半分というのはどういうことなのだろう。ラインハルトは眉をひそめた。オスカルは右の手のひらに置いたペンダントをじっと眺めて、続ける。

「なくしたっていうのは本当だ。でも、すぐにっていうのと、存在も忘れていたっていうのは嘘だ。それに、探せばこうして見つかった」

 オスカルは左手を口元に当てて絆創膏に覆われた傷を気にする素振りを見せる。もしかしたら口を開くたびに痛むのかもしれない。だがラインハルトの知るオスカルからは思いもよらないほど言葉の歯切れが悪いのは、きっと傷のせいだけではない。

「最初から間違いだと思っていたわけじゃない。だからこれだって、大事にしてはいたんだ。スイスに行った最初の頃は。ただ……」

 覚悟を決めるように右手をぎゅっと握りしめるオスカルの話に、ラインハルトは黙って耳を傾けるしかなかった。

 十四歳のオスカルにとってスイス行きは望まざるものだった。ラインハルトとの関係を咎められ、生まれ育ったウィーンを離れて無理やりスイスの学校にやられたときはひどく落ち込んだし、理不尽なことをする親を恨んだのだという。

 当初のオスカルは、一日も早く大人になってウィーンへ戻りラインハルトと再会しようと心に決めていた。ラインハルトの側にもそういった内容の手紙を受け取った記憶はあるから、あながち嘘というわけではないのだろう。

「でもその決意を勇ましく寮のルームメートに話したら、笑われたよ。男が男を好きになるなんて異常で、ただの勘違いだって。女の子と付き合ってみればすぐに目が覚めるって。正直こたえたよ。親から言われる分にはただのうるさい小言だと思えていたけど、同世代の友人からおかしいって言われると、本当にそうなのかなと思えてくる」

 そして、心に迷いを抱いてしまったことを後ろめたく思うオスカルは、だんだんラインハルトへの手紙に何を書けば良いのかわからなくなっていった。スイスの友人たちはオスカルを「正しい道」に戻そうと、良かれと思って女の子を紹介してくれたり、欲情を誘う姿をした女性のブロマイドを手渡してくれたりした。そして実際、新しい世界はオスカルにとって鮮やかで魅力的なものだった。

「要するに――俺は心底そういう志向を持った人間ではなかったんだと思う。女の子と話せば楽しいと思うし、会わないうちにおまえへの気持ちがよくわからなくなっていった。もちろん俺が手紙を出す回数も減ったけど、届く手紙も少なくなって……」

 そしてオスカルの心はラインハルトから離れた、そういうことなのだろう。オスカルにはオスカルの理由があって手紙を書けなくなった。一方でラインハルトには自分なりの理由があった。

 ラインハルトは少し迷って、ゆっくりと口を開く。

「それは……この間、君が指摘したように、俺の外見が……」

 この話を今伝える必要はないのかもしれない。だがオスカルが何らかの気持ちをもってここに来たのならば、自分も正直にこれまでのことを話すべきなのかもしれない。それはつい先日決意した、これからは自分の気持ちに真っ直ぐに生きるという決意にもつながっているように思えた。

「成長期が来たんだ。俺はずっと外見を褒められて、女の子より可愛らしいなんて言われて図に乗っていた。……だからオスカル、君が俺を好きだと言ってくれたのは外見あってのことだってわかってたんだ。なのに髪だって、体だってどんどん違った風に変わってしまって」

 オスカルが小さく息を飲むのがわかった。

「だから、手紙を書かなくなったのか」

 その問いにラインハルトは首を縦に振る。

「君から久しぶりに届いた手紙に、写真を送ってほしいと書かれていた。それで怖くなったんだ。変わってしまった俺を見たら、きっと君は失望して僕を嫌いになるって」

 心の中にはどうしようもない気持ちがあふれてくる。少なくともあの頃のことだけならば、どちらが悪いわけでもない。未完成な恋愛感情だけを胸に抱いたまま引き離されて、少しずつ自分のことも、相手のこともわからなくなっていった。オスカルは自分の迷いを悟られることが怖くて、ラインハルトは自分の外見に自信が持てなくなり、お互いの遠慮がちな気持ちがどんどん距離を広げていった。

 もちろんあの頃のオスカルが正直に迷いを書いたとして、ラインハルトが正直に写真を送ったとして、きっといつかは終わっていた。今のオスカルが女性を恋愛対象としてごく普通の生活を営んでいるのだとすれば、彼はラインハルトとは違う種類の人間だったということだ。でも同じ終わるにしても、きちんと言葉で伝えてさえいればもう少し違った方法で、心にしこりを残さずに終えられていたのかもしれない。

 連絡が途絶えてからもラインハルトの中でオスカルは忘れられない存在として長い間消えないしこりのように残り続けた。一方オスカルはもやもやとした感情にけりをつけようと、あのネックレスを封印して過去の自分を忘れようとした。そして実際に――ほとんど忘れてしまったのだろう。

「俺はどこかで、自分はおかしなことをして親元からスイスに送られたんだって劣等感を感じていた。実際周囲にもそんな目で見てられていたし。だから次第に、ウィーンにいたころの自分は間違っていた、魔が差しただけなんだと思い込むようになった」

 ミュラー弁護士の事務所でのラインハルトとの思わぬ再会に、オスカルだって動揺しなかったわけではない。それでもあの日わざわざラインハルトをパブへ誘ったのは、あの頃の出来事を子どもの過ちとして笑い合いたかったから。たいしたことのない、くだらない思春期の笑い話――向かい合ってそう確認することで本当に過去の劣等感から解放されると――楽になれると信じていたのだ。

「おまえの反応を見て、正直あわてたよ。笑い話にするつもりが全然そんなんじゃないんだって知って、どうしたら良いかわからなくなった。だから……ついおまえのことをひどく否定して……正義ぶったことを」

 悪いことをしたと小さくつぶやいて頭を下げられて、しかしそんなことで楽になれるのはきっとオスカルだけだ。一方的に謝って、納得して、罪を償ったつもりで心の重荷を降ろし、オスカルは明日からはまた凛とした姿で完璧な人生を歩んでいくのだろう。今のオスカルは今までのどの時点よりも遠く感じられた。

 ずっとずっとあの頃の思いを胸に抱いて、人と違う自分に苦しんで、神からも家族からも離れて生きる覚悟を決めた自分とはあまりに違って、あまりに遠く――あまりに身勝手だ。

「だったらなんで会いに来たんだ。そんなものまで探し出して」

 絞りだした言葉には意図せず恨みがましさが混じる。こんな気持ちにさせられるくらいなら、姿を現さないで欲しかった。誤解して、ひどいことをしたままでいてくれたほうがよっぽどましだった。

 オスカルは気まずそうに、足元に視線を落とす。そして左手を上着のポケットに入れた。

「来るつもりはなかった、でも」

 ポケットからゆっくりと手を抜き、オスカルが握った手のひらを開く。そこにはもうひとつのネックレスがあった。さっきまでオスカルが右手に握っていたはずの十字架が手品のように左手の中で輝いている。

 そしてオスカルは再び右手を差し出す。右の手のひらにひとつ。左の手のひらにひとつ。なくなったはずのネックレスが二つとも今ここにあるのだ。ひとつはオスカルが封印したまま手元に持っていたのだとしても、もうひとつはどうして。だって、あれはルーカスが。

「……俺のは、投げ捨ててしまったんだ」

 震える声でラインハルトは言った。

「オスカル、いまさら君に何かを期待してたわけじゃないけれど、幸せな頃の思い出だから捨てられず、ずっと手元に置いていた。でも、このあいだ君に会った後に窓から放り投げてしまったんだ。だから、ここにあるはずは……」

 オスカルは右手に持っていたペンダントを左手に移す。大きな掌の上で金色に輝く鎖が絡み合った。