Chapter 4|第67話

 オスカルがちょうど目隠しの位置に立っているせいでラインハルトには開いた扉の向こうが見えない。だから驚いたように動きを止めたオスカルの背中がはらんだ緊張の意味を瞬時に悟ることはできなかった。

「おまえ、いつから」

 つぶやいて、オスカルが一歩下がる。そしてラインハルトは耳を疑った。

「……あんた、ここで何やってるんだ。ラインハルトに何を言ったんだよ!?」

 聞き慣れた声。ここ最近何度も忘れようとして、それでも反芻することを止められなかった声。ほんの一瞬くらいは感情を抑える努力をしようとしていたかもしれない。だが、言葉の後ろ半分はほとんど怒号のようで、ルーカスはそのまま噛み付くようにオスカルの胸元へ飛びかかる。

「おい、誤解だ。これはっ」

 力任せに殴りつけようとしたのは明らかだったがオスカルもさすがに二度も同じ手は食わず、弁解の言葉を口にしながらルーカスが振り回す拳をすんでのところで受け止める。拾い上げたばかりのネックレスが再びオスカルの手から落ちて床板の上を跳ねるのが、ラインハルトの目にはスローモーションのように映った。

「誤解だって? だったらどうしてラインハルトが泣いてるんだよ」

 ルーカスは体格で勝るオスカルに腕を抑えられながら、それでも何とか攻撃を続けようと暴れ続ける。加減を知らない闇雲な動きに押し切られた手が外れた拍子に少年の拳がオスカルの耳のあたりをかすめた。

 あまりに非現実的な光景を前にぼんやりと立ちつくしていたラインハルトは、そこでようやく正気を取り戻す。扉を開けたままで大声をあげてのけんか沙汰。近所に気付かれて騒ぎになる前にとりあえず止めなければ。

「おい、やめろよ」

 戸惑いながら声をかけるが、興奮したルーカスの耳には届く気配はない。さらにもう一発、今度こそオスカルの顔面に向けてルーカスが拳を振り上げたところにラインハルトは横から飛びかかってその腕をつかんだ。

「やめろってば、ルーカス!」

 ラインハルトの大声に、雷に打たれたようにルーカスが手を止めた。その隙にルーカスの手を振りほどいて数歩後ろに下がったオスカルは、肩を揺らしながら息を整える。

 ルーカスはゆっくりと首を動かしラインハルトを見る。その顔にじわりと気まずさが浮かび上がるのを見て、ラインハルトも黙ってルーカスの腕から手を離した。あれだけのことがあった後だ、気まずいのはお互い様だ。ルーカスはラインハルトからそっと目をそらすと、さっきまでの勢いが嘘のように力なく口を開いた。

「ごめん、言われたこと忘れたわけじゃないし……ここまで来るつもりはなかったんだけど、言い争うみたいな声が聞こえたから、つい」

 ルーカスはラインハルトを怒らせたと思っているのだろう。最後に会ったときにラインハルトはルーカスにもう二度と姿を現すなときつく言いつけた。つまり、今ルーカスがここにいること自体が約束を破ったことになる。ラインハルト自身は突然のことに驚いただけで一切怒りは感じてはいないものの、委縮したようなルーカスの態度にどう反応すべきなのかわからない。

 ラインハルトがそれ以上叱責してこないことを奇妙に思ったのだろうか。横目でちらりと表情を伺ってからルーカスは小さく続ける。

「……それに、泣いてるから」

 指摘されたラインハルトは袖口で目元を拭う。すでに泣き止んでいるとはいえ、顔にはさっきのオスカルとのやりとりで流した涙の跡がくっきり残っている。そしてルーカスは、オスカルがラインハルトにひどいことをして泣かせたと思いこんでいるのだ。

「違う、これは別に……オスカルはただ謝罪に来てくれただけで」

 ラインハルトは思わずオスカルをかばった。もちろんその言葉には多少の嘘が混ざっているのだが、少なくとも今日のオスカルに悪気はなかったわけだし、これ以上目の前でルーカスに暴れられても困る。いや、実際のところは目の前の出来事に混乱して、自分が何を口にしているのかすらはっきり認識できていなかったのかもしれない。

 ルーカスが扉の外でオスカルとのやり取りを聞いていたというのなら、さっき自分が口にした内容も知られてしまったのだろうか。本当はラインハルトがルーカスへの未練を断ち切れずにいること。それでも過去の二の舞になることを恐れるがあまり身動きとれなくなっていることも。

 だが、ラインハルトの言葉を聞いたルーカスはそのまま床に落ちたネックレスを拾い上げようとしているオスカルに視線を移すと、わずかに落胆したような表情を見せた。

「謝罪、じゃあ……」

 顔を上げたオスカルも、その言葉にうなずく。

「そうだ、誰かさんにぶん殴られて反省したから謝りに来たんだ。ついでにこいつを届けようと思って」

 再びオスカルの手に戻ったペンダント。ルーカスはそれをどんな思いで眺めるのだろうか。あれだけひどい言葉を投げかけられ、完全に拒絶されたにも関わらず再びここへ戻ってきたルーカス。いや、今日だけではない。ラインハルトが気付かずにいただけで何度もこの部屋のすぐそばまで来て、投げ捨てたネックレスを探し出し――その後もラインハルトの様子を気にしていた。彼自身の気持ちすら横に置いて、ラインハルトの幸福のためだけにオスカルの元へ直談判に向かい――そして今日、言い合いの声に耐え切れずドアを開けたのだ。

 いくらひどい目に遭わされても、拒絶の言葉を投げられても、それでもただラインハルトの幸いだけを願って傷つくことさえ厭わない――そんなルーカスに、今ラインハルトは何と声をかけるべきなのだろう。戸惑うラインハルトの代わりに口を開いたのはオスカルだった。

「ラインハルト。これでもまだ、こいつを俺と同じだと?」

 ラインハルトは唇を噛んだ。同じではない。同じであるはずがない。そんなこと本当は最初からわかっている。ちょっとした周囲の横やりに気持ちが揺らいだオスカルとも、自分自身への自身のなさから黙って身を引くことしかできなかったかつてのラインハルトとも違う。ルーカスはいつだってただラインハルトを信じて、その手を求めてくれた。拒絶されてもひどい言葉をかけられてもここに戻ってきてくれた。なのに。

 ただ黙って床を眺めているラインハルトに向かい、ルーカスが弱々しくつぶやく。

「ごめん、勘違いだったなら僕は帰……」

「待て!」

 きびすを返しかける少年を思わず引き止めた。だって、勘違いなんかじゃない。細かな誤解なんてどうでもいい。ラインハルトはただ、ルーカスに戻ってきて欲しかった。そして事実今、ルーカスがここにいる。

 心の奥底では、もしもう一度チャンスが訪れたら今度こそ、と思っていた。今までの意気地なしだった自分ではなく、失うことが怖くてあらかじめ身を引いていた自分でもなく、ちゃんと勇気を持って自分の気持ちに正直に振る舞うのではなく――出来ることならばルーカスに対してもう一度やり直したいと。勇気を出して踏み出したいと。

 いくら断られても友人だからとレオの元へ通い続けたのだと屈託なく笑うハンスのことを思い出す。愛だろうが友情だろうが関係ない。人が強く人を求めるというのはきっとそういう、自分の傷を厭わず誰かとつながり続けたいと、誰かを求めるということ。

「オスカル、悪いけど君は」

 覚悟を決めたラインハルトが振り返ってそう告げると、長い初恋の相手は小さく笑う。

「言われなくたって、もう帰るとこだった」

 そう言ってオスカルは扉へ向かって踏み出しながら、拾い上げたネックレスのうちひとつをまずはラインハルトに握らせる。そして事情がつかめずにあっけにとられているルーカスへもうひとつの片割れを差し出した。

「これはもう、おまえのものだ」

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