残された言葉の意味も手の中にあるものの持つ意味も理解しかねている様子で、ルーカスは去ってゆくオスカルの背中をぼんやりと眺めていた。なかなかラインハルトの方を振り返ろうとしないのはきっと、彼もまたこの状況に戸惑っているのだろう。
もちろんラインハルトだって、ルーカスと二人きりで取り残されてどう振舞えば良いのかなどわからない。気まずくてたまらないからオスカルを一瞬引き留めたくなったくらいだ。でも、本当は今が最後のチャンスなのだということにも気づいている。ルーカスを永遠に失いたいのか、それとも多くのものを犠牲にすることすら覚悟の上で踏み出すのか、この場で選ぶしかないのだということを――。
足音が去った部屋は静まり返り、話をしないといけないと頭では理解しているのに口がからからに乾いて言葉が出てこない。手の中のネックレスがやたらと重かった。
結局、先に口を開いたのはルーカスだった。手にした片割れのネックレスを困ったように弄びながら振り返るところまでは、注意深くラインハルトと視線を合わせないようにしていたが、乱雑に物が散らばった部屋に気付くとはっと顔を上げる。
「ラインハルト、これは?」
「え、ああ……」
言い逃れなどとても無理に決まっているあからさまな荷造り風景。気まずくうなずいたラインハルトに向かってルーカスはうなだれ、唇を噛んだ。
「引っ越すんだ。僕のせいだね」
「……新しい仕事が決まったんだ。そこが住み込みだからで、別におまえのせいじゃない」
実際は因果関係が逆だ。ルーカスを忘れたいからここを出ていこうとして、住み込みの仕事に飛びついた。だが、ラインハルトはまだその正直な気持ちを告げる気が持てなかった。
本当は答えなんて出ている。ルーカスはオスカルとは違うということ、そんなことは前からわかっていた。ラインハルトがいくらわがままや気まぐれで振り回しても何度だって許してくれる。みっともない姿を晒すことを厭わずに、泣いて、すがりついて求めてくれる。これまでラインハルトは自分自身が傷つくことを恐れて何度もルーカスを拒絶してきたが、心の奥底では、それでもルーカスが戻って来てくれるのではないかと期待し、戻って来てほしいと望み続けていた。
「……まるきり、子どもだな」
思わず言葉がこぼれた。もちろんそれはラインハルト自身に向けての自嘲だったが、ルーカスはそうは受け止めなかったようだ。うつむいたままで謝罪の言葉を口にする。
「ごめん、また言われたことを守れなかった。子ども扱いするなって自分で言っておきながら、すごく子どもっぽいことしてるってことわかってるんだ」
前回ここから追い出されたときにラインハルトに告げられた「二度と来るな」という言いつけを破ったことをルーカスはひどく気にしているようだ。
オスカルの言っていたことを信じるのならば、ルーカスは窓から投げたネックレスを探すために何度もここに通い、それでもラインハルトの前には姿を現さなかったどころか、ようやく見つけ出したそれをオスカルに渡しに行った。あの日、自暴自棄になったラインハルトの言葉を信じ込んでいるからこそ、オスカルにもう一度ラインハルトとのことを考えてやってくれと頼みに行ったのだ。言い合う声を聞かなければ今日も部屋までやってくることなく引き返す気だったというのもきっと、嘘ではないのだろう。
子どもっぽく愚かなのはルーカスではなくラインハルトの方だ。責める気はないのだと言おうとして、ラインハルトは口をつぐむ。あれだけ酷いことばかりして、いまさらあれは嘘だったなんて――どんな顔で言えばいい。それに、やはりルーカスが必要で一緒にいて欲しいと言い出したところで、厳しい周囲の状況に変わりはない。本当に自分にはルーカスの人生への責任が取れるのだろうか。
心臓が体の中でばくばくと音を立てている。言いたいことはたくさんあるはずなのに、何一つまとまらない。勇気を出さなければいけないとわかっているのに踏み出すことができない。本当に欲しいものは目の前にあるのに、どうやって手を伸ばせば良いのかがわからない。それはきっと初恋に落ちた頃の自分ならば、傷つくことを知らなかった頃の自分にとっては容易かったはず。一つ一つ傷を作り、あきらめることを繰り返すうちに飲み込んだ言葉が体の中で重く固まって、いつからか身動きをとることすら難しくなった。
険しい顔で黙り込むラインハルトに、ルーカスは悲しそうな表情を見せた。
「こんなんじゃ駄目だってことも、自分じゃどうしたって無理だってことも本当はわかってるんだ」
手にしたネックレスをぎゅっと握りしめてつぶやく言葉は独り言のようでもあり、ラインハルトに訴えているようでもあった。
「あんたが出会った頃の僕の姿が好きで、あのままでいれば側にいさせてくれるっていうならいつまでも子どものままでいたい。でもやっぱりそれじゃ嫌で、明日の朝起きたら大人になっていたらいいなって毎日思ってる。僕が大人ならひどいことを言う人からラインハルトを守ってあげることだってできるし……でも結局どっちにもなれない。ラインハルトを困らせるくらい中身は幼稚で、なのに見てくれは変わっちゃって」
肩をすくめて、うなだれて、育った体を小さく縮めてルーカスはただ悲しそうだった。そして、何の咎も彼――ただ心底ラインハルトを慕ってくれていただけの少年を、自分勝手な感情で傷つけてきたのは――。
「ルーカス……」
言葉を。今こそ、これまで堪えてきた言葉を口にしなければいけない。子どもらしい無知でも無鉄砲さでもない。ルーカスだってこれまでいくらでも悩んで傷を作ってきていたのに。それは全てラインハルトのわがままのせいだったのに。
何もかもを失ったって構わないから、今この瞬間ルーカスを救う言葉を。なのにどうして頭の中は真っ白で、喉からはほんの一言すら出てこないのだろう。
黙ったまましばらくの間二人は向かい合っていた。ルーカスが小さく鼻をすすったのはこみ上げる涙を堪えたためなのかもしれない。ラインハルトは必死に言葉を探して、何も見つけられないまま焦った。このままでは本当にルーカスを失ってしまう。しかも彼の心にひどい傷をつけたまま。
「ごめん変な話をして。もう帰るね」
沈黙に耐えかねたのかルーカスがそう言って顔を上げた。どうにか気持ちを立て直そうとするかのようにさっきよりは少し明るい表情をしているが、強がりであるのは明らかだ。
ルーカスは手にしたままだったネックレスを棚に置くとラインハルトに背を向けた。あんなに華奢で小さかった背中は別人のように広くなりシャツ越しにたくましい肩甲骨が浮く。
沈黙と緊張感。ルーカスの動きがどことなくゆっくりしているのは、彼もまだ希望を捨てきれていないからだ。でも、もう全ての気持ちを吐露して、全ての勇気を出し尽くしたルーカスには何も残っていない。
そして、ラインハルトには――。
「ま、待って」
必死で絞り出したその先をどう続ければいいのか、そんなことどうだっていい。ただラインハルトには、ルーカスに伝えなければいけないことがある。