第2話

「……お母さんが?」

 僕はとても信じられない気持ちだった。

 だって、ときどき病院に通うようになってからも、具合悪そうにソファで休むことが増えても、とうとう入院してしまった後も、お母さんはいつだって僕の顔を見ると「大丈夫。すぐによくなるから」と笑っていた。お母さんは僕に一度だって嘘なんかついたことはない。だから、急にすごく具合が悪くなってそのまま死んでしまったのは、何かすごく運の悪い、事故みたいなことなんだと思っていた。

「嘘だよ、そんなの。お母さんがそんなことするはずないよ! だってお母さん、すぐ治るって言ってたもん!」

 お母さんが、前々から自分が死んでしまう将来を想像していて、そのときのための準備をしていたなんて。しかも、僕に黙っていたなんて――。

「お気の毒ですが、私は嘘は……」

「嘘つき!」

 思わず大きな声が出た。これまでの三日間、僕は「AP-Z92-M」になんとなく好感をもっていた。でも、急にその優しげな顔も、丁寧すぎる物腰も、ひんやりとした手の感触も、何もかもが憎らしくなった。それどころか、こんなひどい嘘をつく奴を一瞬でも安心できる相手だと思ってしまったことが悔しかった。

 こんな奴が「成人」するまでお母さんの代わりに僕といっしょにいるなんて、我慢できない。「成人」までがどれくらいの間なのかはよくわからないけど、きっとすごくすごく長い時間なんだろう。

「嫌だよ。おまえなんかいらない、大嫌いだ。お母さんはロボットじゃないし、おまえなんか絶対にお母さんの代わりにはならないもん。帰れよ、嘘つきロボット」

 お母さんはいつだって「人には親切に、礼儀正しくしなさい」と言っていた。だから僕は「AP-Z92-M」にも他の大人にするのと同じように丁寧に呼びかけ、きちんとした態度を取ろうとしていた。でももうそれも限界だし、そもそも目の前にいるこれは「人」なんかじゃない。だからひどい態度を取ったって、ひどい言葉を投げかけたって、気にすることなんかない。

 困ったように伸ばされた手を振り払って、僕はリビングを飛び出した。自分の部屋に駆け込んで、もし彼が追ってきても入ってくることができないようドアの内側に椅子を置いてバリケードを作った。もちろんあのロボットが大人の男並みの力を持っているのならばこんな椅子なんの役にも立たないだろう。でも、とにかく僕は今、彼の顔すら見たくないことをできうる限りの方法でアピールしたかった。

 ベッドに潜り込んだら、ここ数日のことや、お母さんのことを思い出して、急に悲しくなってきた。目を閉じて冷たくなったお母さんの姿を見たし、お母さんを焼いた後の白い小石のような骨だって見たのに、今の今まで不思議とそんなに悲しくはなかった。もしかしたらひょっこりと、リフトのないアパートメントの五階まで息を切らして登ってきたお母さんが「ただいま、アキ」と姿を現すんじゃないか、そんな風に思っていたのかもしれない。冗談好きでおっちょこちょいなお母さんだったから「ごめんごめん、あれは間違いだったのよ」と笑って、お詫びにアイスクリームを食べに連れて行ってくれるんじゃないかと。

 でも、あいつは言った。

 お母さんは、自分がもうすぐ「死ぬ」とわかっていて、だから代わりにあいつを買ったのだと。僕に黙って。

「嘘つき。嘘つき……」

 頭まで毛布を被って、僕はただつぶやいた。気づけば涙が後から後からにじみ出てきて、枕がしっとりと冷たくなった。

 お母さんが僕に嘘をつくはずなんてないから、だったら嘘つきはあのロボットだ。あんな奴大嫌いだ。僕とお母さんのアパートメントからすぐにでも出て行って欲しい。もう二度と顔も見たくない。そんなことを考えているうちにいつの間にか眠っていた。

 翌朝、目を覚ますといい匂いがした。トマトと玉ねぎとベーコンのスープは朝ご飯の定番で、時間があるときお母さんはそこにポーチドエッグを落としてくれる。寝ぼけ眼のまま僕は空腹につられ、ふらふらと部屋を出た。

「あっ……」

 リビングに入った瞬間、はっとする。

 そこにいるのは長い赤毛を背中に垂らしたお母さんではなく、艶やかな黒髪をきれいに撫でつけた男の後ろ姿だった。昨日までと同じように、白いパリッとしたシャツにプレスのきいた黒いズボン。足元はぴかぴかの革靴。生活感のない格好に家庭用のエプロンをつけているのが奇妙に見える。

 彼は、キッチンに立って朝食の準備をしている最中だった。

「おはようございます、アキ。もうじき食事の準備ができますよ」

 顔だけで振り返ると「AP-Z92-M」はうっすらと笑顔を浮かべた。まるで昨晩は何もなかったかのように。僕が彼を嘘つき呼ばわりして出て行けといったことすら夢であったかのように。

 でも、僕は簡単にはだまされない。いくらこいつが何もかも忘れたふりをしたって、昨晩の出来事は忘れず全部覚えているし――どんなにスープがおいしそうだったとしても、いや、むしろそれがお母さんの作るスープとそっくりの匂いを漂わせているからこそ、僕はこいつを受け入れたくない。

「いらない!」

 僕はそうきっぱりと言った。

「おまえの準備した食事なんか、いらない」

「私が準備しなければ、食べるものは何もありません。アキ、わがままを言わないで」

 優しげな口調は明らかに、わがままを言う子どもを諫めるときのものだ。馬鹿にされているようで僕はますます面白くない。

「だったら、ずっと何も食べない!」

 すると「AP-Z92-M」は、ようやく体全体で振り返り、リビングの真ん中に仁王立ちしている僕と向き合った。まじまじと全身を見つめられているのがわかる。目の辺りが熱を持って腫れぼったい感じがするのは昨日ベッドの中で泣いたからで、それがこいつにばれてしまうだろうかと僕はちょっとだけ気まずい気持ちになった。

 数秒。数十秒。もしかしたら数分。ようやく「AP-Z92-M」は口を開いた。

「そうですか。では、お付き合いしましょう。あなたがご機嫌を直して何か召し上がる気になるまで、私も何も食べません」

 そして彼はコンロの火を消し、鍋に蓋をした。エプロンを外すときれいにたたんでダイニングチェアの背に掛けて、ひとつ大きなため息をついた。