第3話

 あいつが家を出て行った気配はない。別々の部屋とはいえ、いけ好かないロボットと二人きりで家にいるのは落ち着かない気持ちだった。腹立たしい気持ちのままに朝ごはんを断ったものの、部屋にこもって数時間もたてばお腹はぺこぺこになり、僕はだんだん心細い気持ちになっていく。

 窓の外に目をやると、たくさんの建物の屋根の向こうに大きな三本の煙突が見える。川向かいの公園にあるその煙突が煙を吐くところを、僕は一度も見たことがない。

「あの煙突は、もうお仕事を終えているのよ」と、お母さんは言っていた。

 公園のある場所には昔、火力発電所が建っていて、電気を作るために毎日たくさんの燃料を燃やしていた。その頃は、あの煙突からは毎日もくもくとたくさんの煙が出ていたのだと話してくれた。でも、僕が生まれるよりもずっと前にその発電所は廃止されてしまったから、今はただランドマークとして煙突が残っているだけなのだと。

 その公園には毎週のようにお母さんと散歩に行った。大きな川にかかる橋を渡り、少し進めば公園の入り口にたどり着く。僕はお母さんと手を繋いでリスや水鳥に餌をやったし、公園の中にある外国風の庭園にある、きれいに手入れされた季節ごとの庭木や花を眺めた。お母さんは花が好きだったけど、僕たちの暮らす小さなアパートメントの最上階にはもちろん庭なんてないから、窓際にちょっとした鉢植えを置くので精一杯だった。

「だったら、大人になったら僕が大きいお庭のある家を買ってあげるよ。お母さんがたくさんお花を育てられるような家を」

 僕がそう言ったらお母さんは嬉しそうに笑って、それから顔を背けてそっと涙を拭った。大好きなお母さんを喜ばせたくて口にした言葉でお母さんが泣いてしまったことに、僕はびっくりして謝った。でも、お母さんは左右に首を振りながら僕をぎゅっと抱きしめた。

「違うわ、アキ。大人はね、嬉しくて泣くこともあるのよ」

 僕にはまだ、嬉しくて泣く気持ちはわからない。

 あの公園に行きたいな、と思う。でもひとりで川の向こうに行くことは禁止されていた。もちろんその禁止事項を決めたお母さんはもういないのだけど、ひとりであんな遠くまで出かけるのはやっぱりちょっと怖い。だからといって「AP-Z92-M」に散歩に連れて行ってと頼む気ことなんて絶対に嫌だから、結局僕はぼんやりと窓の外を眺めることしかできない。

 どうして、お母さんが今ここにいないんだろう。あいつは優しげな顔をしているし、嘘つきであること以外はそんなに嫌なやつではない。でも、お母さんではない誰かがここにいて、しかも僕が知らないお母さんのことをしたり顔で話すのはどうしても受け入れられない。

 燃やすんじゃなかった。そうしたらもしかしたらお母さんは目を覚ましたかもしれないのに。あれは何かの間違いで、ただ眠っていただけだったかもしれないのに。そんなことを考えているうちに寂しくなって、お腹もすいて、惨めな気分で僕はただ膝を抱えた。

 お昼くらいだったと思う。突然玄関のチャイムが鳴った。

 誰もやってきたことのないこの部屋のチャイムが鳴るのは初めてだったので、聞き慣れない音にびっくりして僕の心臓は跳ね上がった。

 足音と、ドアを開ける音。「AP-Z92-M」がまるでこの家の主であるかのようにお客さんの応対をしようとしている。そう思うと気に食わないけれど、玄関に出て行くのは怖いから僕はドアに耳をつけて廊下の様子をうかがった。

「どなたですか」と、あいつの声がした。

「アキヒコ様はどちらですか」と、見知らぬ声が言った。

 僕の鼓動は大きくなる。

 お母さんは僕のことを「アキ」と呼んでいたけれど、僕の本当の名前は「アキヒコ」という。この辺りではあまり見かけない名前だけれど、お母さんは「遠い東の島国では一般的な名前なのよ」と言っていた。一度も会ったことのない僕のお父さんは、東の島国出身の人だったらしい。お母さんはお父さんの話をしたがらなかったから、僕もそれ以上のことを質問したことはない。

「申し訳ありませんが、名乗りもしない方にはお答えできません。どなた様でしょうか」

 そう答える「AP-Z92-M」の声色は、少し険しくて冷たくて、僕に話しかけるときとは全く違った風に聞こえた。

 彼らは低い声でしばらく話し合っていた。ドア越しだし、彼らは早口で、難しい言葉が多いので僕にはよく意味がわからない。

 やがて足音が突然近づいてきて、突然僕の部屋の扉が開いた。

「うわっ」

 扉に耳をつけていた僕は、急にドアを引かれたのでよろめいて廊下に向かって倒れこむ。目の前にはピカピカに磨かれたダークブラウンの革靴があり、顔をあげると少しだけ白髪の混じった恰幅の良い男の人が立っていた。

「あなたがアキヒコ様ですね。この度のお母様のことは残念でした。お悔やみを申し上げます」

「あなた……誰?」

 また、見たことのない人だ。お母さんが死んでしまって以降、知らない人(「AP-Z92-M」はロボットだけれど)が次々と現れて、知ったような顔で僕の名前を呼ぶ。それは僕を落ち着かない気持ちにさせる。

 白髪混じりの彼は手を伸ばして床に転がった僕を助け起こしてから、しゃがみこんで目の位置を僕に合わせた。

「アキヒコ様、私はあなたのおじい様であるラザフォード様の顧問弁護士を務めるベネットといいます。おじい様は、あなたがお母様を亡くしお一人になられたことを心配しておられます。アキヒコ様はまだ幼くいらっしゃる。おじい様のところで暮らすのが良いでしょう」

 僕はただぽかんと口を開けて、彼の顔をじっと見た。

 お世話ロボットの次は、知らないおじさんと、今まで聞いたことのない「おじい様」。とても頭がついていきそうにない。

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