第4話

 ベネットと名乗った白髪混じりのおじさんの言うことの意味がわからずぼんやり立ちすくんでいると、「AP-Z92-M」が横からさっと手を出して僕の肩をつかんだ。これまで常に優しく紳士的だった彼からは思いもよらない激しい動きだった。

「いけません」と、彼は強い口調でベネットさんに言った。

 大人の男の人にしてはやや頼りなく細い肩と狭い背中。後ろに僕を隠すように立つその姿は、堂々と恰幅の良いベネットさんの前で必死に強がっているようにしか見えない。しかしそれでも「AP-Z92-M」は一歩も引こうとはしない。

「いけません、それはエマ様のご遺志に背きます。エマ様はご自身に万が一のことがあった後もサー・ラザフォードの力を借りずにいることを望んで、だからこそ私を契約なさったのです。アキをここから連れて行かせることは、できません」

 エマ、というのは僕のお母さんの名前だ。お母さんの名前はエマ・ラザフォードで、その子どもである僕はアキヒコ・ラザフォード。だから、「サー・ラザフォード」というのがきっとその「おじい様」のことなのだろう。

 でも、お母さんはいつも、僕たちには他に身内はいないと言っていた。だから僕におじいさんがいるはずはない。「AP-Z92-M」が嘘つきなのと同様に、ベネットさんも信用ならない嘘つきだと僕は判断する。

 ベネットさんは体を起こすと、いくらかわざとらしく聞こえるため息をついた。

「いかにも頑固なエマ様らしい。家を出るときに金輪際絶対にラザフォード様を頼らないと宣言なさった、それを貫こうとしたわけだ。だが、どうだ。まだ幼いアキヒコ様の保護者がロボットだというのは奇妙だと思わないかね。君は確かに見た目は人間そっくりにできているが、もちろん自分の身の程くらいはわかっているだろう」

「ええ、もちろん。だからこそエマ様との契約を忠実に履行するのです。私は人間のように融通はききませんから」

 大人の会話は難しくて僕にはよくわからない。ただ、ベネットさんは「AP-Z92-M」が僕の面倒をみることを快く思っていないのだということはわかった。それと同時に、ベネットさんがこの若い男の姿をしたロボットのことを馬鹿にして、見下しているみたいだということも。

「どうかな。アキヒコ様の後見について法的手続きを取ろうとした場合、死んだ女性との契約を理由に戦うつもりか? 出るところに出た場合にどういう判断が下されるか、想像つかない程度の脳システムしか持っていないとは思いたくないが。機械であるおまえには彼を手元に置く権利などないことくらい、法律家でなくたってわかる話だ」

 僕に背中を向けて立つ「AP-Z92-M」の背中がびくりと震えるのがわかった。

「でも、私は……」

「何も乱暴なことをするわけじゃない。ラザフォード様もご高齢だ、このままいけば将来彼の資産は、唯一の子孫であるアキヒコ様が相続することになる。そのときに困らないよう今からアキヒコ様を手元に置いて、少しずついろいろなことを教えていきたいと考えていらっしゃるのだ。アキヒコ様の為にもそのほうがずっといいと思わないかい?」

 ベネットさんは「AP-Z92-M」を押しのける。さっきまであんなに力強かったのに、ぐっと肩を押された「AP-Z92-M」は軽くよろめくと、そのまま力なく壁にもたれかかった。

 改めてベネットさんが僕の視界の真ん中に入る。今の今まで「AP-Z92-M」に厳しい物言いをしていたのが嘘みたいに、再びしゃがんで目線を僕と同じ高さにした彼はにこやかで、優しそうだった。

「アキヒコ様、ここでこのロボットと暮らすのと、血の繋がったおじい様のところで暮らすのは、どちらが良いですか? おじい様のお住いは郊外で敷地も広く、こんなせせこましく空気の悪い場所ではありません。あなたには広いお部屋が与えられますし、なんの不便もありません。このロボットのことは気になさらなくても、私の方で返品手続きを取ることもできるでしょう」

 優しそうに見えるけど、この人もきっと嘘つきだ。お母さんは自分が死ぬことを知っていた、と嘘をついた「AP-Z92-M」。僕にはいるはずのない「おじい様」のところに連れて言ってやる、と嘘をつくベネットさん。嘘つき二人に挟まれて、僕はどうしたらいいのかわからなくなる。こんなときお母さんがいれば、きっと正しいことを教えてくれたのに。

「……僕、わかんない」

 混乱と不安で鼻の奥がつんとした。人前で泣くのは格好悪いとお母さんにもナーサリーの先生にも教えられたから、僕は何とか涙をこらえた。すると、大きくて温かい手が僕の頭に触れる。それはベネットさんの手だった。

「失礼しました。確かに急にこんな話をされても、心の整理がつくはずもない。焦って困らせてしまい、申し訳ありません。……アキヒコ様とりあえず一度、おじい様のところへ行って、彼に会ってみませんか。嫌だったらいつでもここに戻ってくることもできます」

 その手の温かさに、少し心が揺らいだ。この人は悪い人じゃないのかもしれない。「AP-Z92-M」みたいに頑固に勝手な言い分をまくし立てるのではなく、少なくとも僕の話を聞いてくれる。そう思ったときだった。

「アキ、その人の話を聞いてはいけません。落ち着いて、私はあなたのお母様に……」

 焦ったように名前を呼ばれて、「AP-Z92-M」への複雑な気持ちが蘇った。優しいふりをして近づいてきた嘘つき。嘘がばれてからもここに居座って、偉そうに僕に命令をしてくる。「その人の話を聞いてはいけません」なんて、なんでこいつに言われなきゃいけないんだろう。

 こいつを困らせてやりたい、そんな意地悪な気持ちは確かに僕の中にあった。とっさに伸ばされる手。冷たい感触が頰に触れて、思わず僕は彼の手を振り払う。

「行く!」

 それはほとんど反射的に飛び出した言葉だった。

「アキ!」

「僕、おじいさんに会いに行く!」

 僕がそう言い切った瞬間、ベネットさんは満面の笑みを浮かべ、「AP-Z92-M」の白い顔はますます真っ白くなった。表情も完全にこわばってしまったから、一瞬僕は彼が壊れてしまったんじゃないかと思ったくらいだ。でも、数秒経てば再び動きだし、伸ばした手を引っ込めてぎゅっと色を失った唇を噛む。

 荷物を詰めに部屋に戻ろうとしたら、ベネットさんは何も持たなくて大丈夫だと言った。おじいさんの家には僕にぴったりの服もおもちゃもたくさん準備してあるのだという。もしかしたら僕が心変わりして「やっぱり行かない」と言い出すのが怖くて焦っているのかもしれない。

 挨拶もせずに家を出る。お母さんとずっと一緒に暮らした部屋。ナーサリーのお泊まり会のときと、病院にお母さんと泊まったとき以外、よそで寝たことはない。ふっと不安に襲われるけれど、ベネットさんだっていつだって戻ってこれるのだと言っていた。第一ここは僕の家なのだから、僕が帰りたいと言って帰れないはずがない。

 ベネットさんに手を引かれて玄関を出たとき、背後から呼びかけられた。

「アキ、あなたとの我慢比べはまだ終わっていません。あなたがご機嫌を直して何か召し上がるのをこの目で見るまで、私はお付き合いしますからね」

「知らない。勝手にすれば」

 振り向かないまま、僕は階段に足を進めた。

 アパートメントの前には運転手付きの大きな車が止まっていた。後部座席にベネットさんと僕は並んで座る。

「いくら育児用は情操豊かに設定されていることが多いとはいえ、あまりに我が強すぎる変なロボットだ。エマ様も騙されて不良品でもつかまされたのかもしれない。アキヒコ様、あれは私の方で返品の手続きをしておきましょう」

 確かに変なロボットだ。僕がナーサリーで会うロボットの先生たちはいつも笑顔で落ち着いていて、あいつみたいに焦ったりしないし、頑固な物言いもしないし、ショックを受けたみたいな顔もしない。感情の波がないのがロボットの先生のいいところなのだと、人間の先生が言っているのを聞いたこともある。

 でも、あいつは――。

 もし僕のお母さんとの契約を果たすことなく、返品されてしまうことになったらあいつはどんな顔をするんだろう。チクリと胸のあたりが痛くなって、僕は小さく首を左右に振った。

「ううん。……まだいい」

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