第5話

 車は一時間以上走った。ごみごみしてしょっちゅう信号に引っかかる街中を抜け、そこら中をあまり上手ではないグラフィティが汚す下町を抜け、やがて広々とした郊外に出る。その間の何もかもが珍しくて、僕はずっとぽかんと口を開けて窓の外を眺めていた。

「アキヒコ様は、この辺りは初めてですか?」

「うん」と、僕はベネットさんの方を振り返らないまま答える。

 お母さんは車を持っていなかったから、僕たちの出かける範囲はだいたいが歩いて行ける家の近所だった。もう少し遠くに行くときは、チューブの形をした地下鉄に乗るか、二階建ての赤いバスに乗る。僕は、こんな小さな車に乗るのも、こんな遠くに行くのも初めてだった。

 そう、こんな遠くに――。

 ふと僕は怖くなる。ひとりで行っちゃだめだと言われた橋を超え、煙突も、時計台も、観覧車も、普段目にしていた何もかもが遠くなって見えなくなった。僕は一体どこに行こうとしているんだろう。お母さんが死んでしまってもうどこにもいないということはわかっているはずなのに、それでも僕は、あの小さな部屋から離れていくことを、お母さんの思い出や影からどんどん遠ざかっていっているように感じた。

 車で見知らぬ場所に行くこと自体は初めてではない。道が混雑したり事故が起きたりすると、赤いバスはすぐに迂回運行を始めて予定とは違う方向に走り出す。そんなとき僕が怖がらずにいられたのは、そこにお母さんがいるからだった。でも、ここにお母さんはいない。

「あ、あの。僕。やっぱり」

 急に不安になって、その気持ちが声や表情に表れてしまったのかもしれない。僕と並んで後部座席に座っているベネットさんは、相変わらず優しい笑顔を浮かべながらぎゅっと僕の肩をつかんだ。

「エマ様はあなたを遠出させることがなかったのでしょう。不安かもしれませんが、この先にはあなたの唯一の血縁であるおじい様が待っています。彼といるのが、アキヒコ様にとっては一番自然で、安心できることなんですよ。大丈夫、すぐに慣れます」

 うん、と言わなければいけないとわかっていた。でも僕はだんだん、ベネットさんが言っていることが本当に正しいのかもわからなくなってきて、だからといって彼のいうことを否定できるだけの根拠もなくて、ただ黙り込んだ。

 慣れないといえば、ベネットさんが僕やお母さんに「様」をつけて呼ぶことにも慣れない。そんな風に呼ばれるのは、歳をとっていたり、先生みたいに偉い人だけなのだと思っていた。ベネットさんは僕よりずっと歳をとっていて、しかも偉い人みたいに見える。なのにどうしてそんな風に呼びかけてくるのだろう。

 僕は彼に「アキヒコ様」と呼ばれるたびに背中がむずむずする。そしてなぜか、ついさっき別れたばかりの「AP-Z92-M」が僕を呼ぶ声を思い出してしまう。アキ、と。お母さんが僕を呼んでいたのと同じように、まるでずっと昔からの知り合いで、そう呼びかけるのが当たり前であるかのように、彼は僕を呼んだ。そして僕は、彼に呼ばれて、あの冷たい手で撫でられて、決して嫌な気分ではなかったのだ。

 やがて、車は大きな門をくぐり、さらに少し走ってから大きな建物の前で止まった。

「こちらです」

 ベネットさんに手を引かれて僕は車を降りた。その建物は僕の住んでいるアパートメントよりも背は低いけれどずっと大きくて、窓もたくさんあって、ホテルやギャラリーのような、人が住む家とは違う何かのように見えた。

「ここで待ち合わせなの?」

「いいえ、こちらがラザフォード様のお宅です。そして今日からはあなたの家でもあります。あなたのお母様もここで生まれ育ったのですよ」

 お母さんがこんな場所で暮らしていたなんて、信じられない気分だった。都会の小さな部屋でてきぱき動くお母さんの姿と、時間の流れもゆっくりしている郊外の大きな邸宅で過ごすお母さん。僕の中で、この光景とお母さんの姿はしっくりと噛み合わない。

 重く大きな扉が開き、僕は足を踏み入れるのを躊躇した。

 いくら今日からはここが僕の家だと、ここには僕のおじいさんが住んでいるのだと言われても落ち着かない。だって僕の家はお母さんと暮らしたあの川沿いの、リフトすらついていないアパートメント最上階の、窓から四本の煙突が見える部屋だけだからだ。

 頭の中にあのロボットの顔が浮かんだ。あいつはどうしているだろう。あの部屋にひとり残されて、何をしているだろう。「AP-Z92-M」はただの機械、しかも嘘つきな機械だ。だから僕はあいつのことが嫌いになって、あいつと二人きりになるよりは本当のおじいさんと一緒にいる方がましだと思ってベネットさんについて来た。でも、いざ見知らぬ家を目の前にして僕はおじけづいた。そして、ここまでやって来たことを後悔しはじめていた。

 とん、とベネットさんが僕の肩を押す。僕は一歩、二歩と前に進みだだっ広い玄関に足を踏み入れる。

「さあ、ラザフォード様がお待ちですよ」

 ベネットさんはにっこりと微笑んで僕の手をとった。