第6話

 広い廊下を歩いていき、大きな扉の前で立ち止まったベネットさんはドアノブに手をかける。

 僕はすっかり怖気付いていた。だって、この先にいるのは知らない人だ。僕のおじいさんと名乗る、知らない誰か。いくらあのロボットに腹が立っていたからって、軽率だった。だって、ベネットさんはいつだって帰ることはできると言ったけど、こんな遠い場所から僕がひとりで家に戻ることは難しい。だから、自称おじいさんとベネットさんが僕をここに閉じ込めたいと思ったならば、僕はどうすることもできない。足がすくんだ。

 ドアが開くと、眩しさに一瞬目がくらんだ。ちょうど、正面の窓から差し込む西陽が僕の目に飛び込んできたのだ。ベネットさんが足早に窓に駆け寄り、レースのカーテンを閉める。

 そして僕は、大きな肘掛け椅子に座る老人がこちらをじっと見ていることに気づいた。

「アキヒコ」

 彼は僕の名前を呼んだ。

 そこは一部屋だけで僕とお母さんの2ベッドルームのアパートメント全部と同じくらいの広さがある、大きな大きな部屋だった。リビングルーム、ドローイングルーム、なんて呼んだらいいのかはわからない。壁際に大きな暖炉があり、ダークウッドの棚には本や、褐色の液体に満たされたきれいな形の瓶が並んでいる。そして、その人――おじいさんは、広い部屋にたった一人で座り、難しい顔をして僕を見つめていた。

 ベネットさんは、おじいさんはすごく僕に会いたがっているというような話をしていたけれど、目の前にいる人はあまり嬉しそうには見えない。白い髪に、白い髭、暗い色をした重そうなガウン。険しい表情で、優しいおじいさんというよりは、どちらかといえばファンタジー映画に出てくる悪い魔法使いみたいだ。

 やっぱりだまされたんだ。そう思った僕は勇気を振り絞って彼に向かって言った。

「あの、あなたは僕のおじいさんじゃないと思う」

 肘掛け椅子の彼の、重そうに垂れ下がった瞼がぐっと持ち上がる。僕の突然の言葉に驚いたように、でも落ち着いた、低い声でゆっくりと彼は訊ねる。

「なぜ、そう思うんだ?」

「だって、お母さんは、僕とお母さんは世界で二人だけだって言ってた」

「そうか」

 悪い魔法使いは、魔法が解けたみたいに寂しい表情になって、目を伏せた。しかしそれはほんの一瞬のことで、再び顔を上げるとまだ扉のあたりに立ったままの僕にさらに質問を投げる。

「じゃあ、君はベネットや私が嘘つきだと?」

 僕は、窓際に立って僕とおじいさんのやり取りを心配そうに眺めているベネットさんをちらりと横目で見た。いったんは彼の言うことに納得して車に乗ったのに、今更嘘つき呼ばわりするのは失礼なことだとわかっている。ベネットさんは怒るだろうか、悲しむだろうか。でも、今は思っていることを正直に言うしかない。

「……うん。それに、家にいるあいつも。皆、嘘をついて僕を騙そうとしてるんだ」

 あいつ? とおじいさんが首を傾げる。ベネットさんが肘掛け椅子に歩み寄り、小さな声で「エマ様が契約した育児支援ロボットです」と囁いた。

「ほお。ロボットが嘘をつくなんて、それは珍しいな」

 意外にもおじいさんは興味深そうに口元を緩めた。ベネットさんは「AP-Z92-M」のことを嫌っているように見えたけど、このおじいさんはむしろロボットの話を面白がっているみたいだ。でも、もちろん僕にとってあいつの話は面白くもなんともない。

「だって、お母さんはいつもすぐに治るって言ってたのに、あいつは、お母さんは自分が……し、死ぬって思ってたって。嘘を……っ」

 昨日の晩以来の腹立たしい気持ちだけではない。ここ最近の出来事が頭の中で整理できずぐちゃぐちゃになって、急に感情があふれた。言葉と同時に両目からぼろぼろと涙がこぼれて、喉と鼻の奥が熱くて痛くてたまらない。あいつの前では悔しいから絶対に泣かないと思っていたから、今になって気持ちが緩んだのかもしれない。こんな見知らぬおじいさんとおじさんの前というのが不思議ではあるけれど。

 涙は止めどなく流れた。肩が震えて、僕はしゃくりあげて、しばらく泣いていた。二人の男の人は何も言わずに、立ったまま泣く僕を眺めていたが、やがておじいさんがゆっくりと肘掛け椅子から立ち上がった。

 脚が悪いのか、ゆっくりと僕の前まで歩いてきた彼はためらいながら手を伸ばし、しかし僕に触れることはなくシワシワのそれをしばらく宙にさまよわせていた。そして、いい加減泣き疲れてきた僕が顔を上げると、お母さんと良く似た緑の目で僕を見た。

「アキヒコ、おまえもいつか大人になったらわかる。大人は人を守ろうとして嘘をつくこともあるんだんだ。嘘をつくのは必ずしも人を裏切ったり、ひどいことをするためではない。優しさゆえの嘘というのもあるんだ」

「……わかんない」

 しゃくりあげながら僕は言った。

 いつかお母さんは、大人は嬉しくても泣くのだと言っていた。嬉しいのに泣くとか、優しくしたくて嘘をつくとか、大人ってめちゃくちゃだ。でも、おじいさんがあまりに真剣な顔をしているから僕はうなずくことしかできなかった。

「じゃあ、嘘をついたのはあいつじゃなくて、お母さんなの?」僕はきく。

「その件については、きっとそのロボットの言うことが正しいだろうな」

 おじいさんはそう答えたから、僕は続けて質問をした。

「じゃあ、あなたが僕のおじいさんだっていうのは?」

「それも、私が正しい」

 そしておじいさんは僕をソファに手招きした。