第7話

 おじいさんは僕をソファに座らせると、その隣に腰掛けた。僕は年をとった人とくっついて座るのははじめてだった。背後からそっとベネットさんがちり紙を差し出してくれたので涙でぐちゃぐちゃの顔を拭いてから、鼻をかんだ。

 鼻が通るようになると、その部屋に独特の空気が漂っていることに気づく。

「病院みたいな匂いがする」

 背後でベネットさんが、ごほんとひとつ、わざとらしい咳払いをする。しかし僕の言葉に、おじいさんはうっすらと笑ったようだった。

「それはきっと、私が年老いているからだな。嫌だったら離れていい」

「別に嫌じゃないよ、病院の匂いも薬の匂いも」

 それは、嘘でもおべっかでもない。お日様とか、洗剤とか、ご飯のいい匂いがしていたお母さんは、いつからか病院や薬の匂いを身にまとうようになっていた。だから僕はこういう匂いにはほんの少し寂しさの混ざった親しみを感じるのだ。

 おじいさんはサイドテーブルに置いてあった分厚いアルバムを取り出して膝の上に置き、僕を引き寄せた。しわくちゃの指が古いアルバムのページを開くと、そこには見知らぬ赤毛の女の子が笑っている。一体おじいさんはなぜこんなものを見せようとするのだろう。

「何なの? これ」

「じきわかる」

 おじいさんがページをめくると、女の子は早回しの映像みたいにどんどん大きくなっていった。僕より小さかった女の子はあっという間に僕より大きなお姉さんになり、どんどん背が伸びて顔立ちも大人びて、やがて ――僕は息をのむ。

「これ、お母さんだ」

 僕が知っているのと違って子どもみたいな顔をして、学校の制服を着て赤毛を二本のおさげにしているけれど、それはお母さんだった。隣に立っているのは、今隣にいるよりずっと若い、おじいさんと同じ顔をした男の人。そして、見知らぬ女の人。

 そうだよ、とうなずいてからおじいさんは写真の中のお母さんを指先で撫でた。

「エマの中学校の入学式のときに記念写真を撮りに写真屋へ行ったんだ。ふくれっ面をしているだろう。この頃はもう反抗期だったから、私と並んで写真に映るのが嫌で仕方ないんだな」

 僕は、見知らぬ女の人を指差す。その人はお母さんと良く似た赤毛をショートカットにしていた。

「これは、誰?」

「私の妻、エマの母……君のおばあさんだよ。残念ながら彼女も、エマと同じ病気でずいぶん前に亡くなってしまったが」

 ――このおじいさんは、本当に僕のお母さんのお父さんだった。

 ベネットさんもおじいさんも嘘をついていなかった。さっきおじいさんの言った話を信じるならば、お母さんは僕を守るために嘘をついたことになる。でも、一体どうしておじいさんもおばあさんもいないなんて言ったんだろう。だって、そんな話を聞いたところで、僕はきっと嫌な気持ちになることも傷つくこともなかった。

「それは、エマが私のことを嫌っていたからだよ。仕事ばかりで家のことは放っているくせに妙なところで口うるさくて、傲慢で、自分でいうのもなんだが若い頃の私はずいぶん嫌なやつだったからね。エマは、私と会ったら君が不愉快な思いをすると思ったんだろう」

 僕の質問に、おじいさんは飄々と答える。聞いているうちになんだか悲しくなってきた。だって、子どもから嫌われるなんて、例えるならば僕がお母さんのことを大嫌いになるのと同じだ。もしも僕に嫌われたらお母さんはどれだけ悲しんだだろう。でも、お母さんが理由もなく人を嫌うようには思えないから、このおじいさんは昔は本当に悪い人だったんだろうか。

 でも、僕は今おじいさんと一緒にいることが嫌ではない。もちろん出会ったばかりだし、こんな広い部屋にベネットさんを含めて三人だけだし、ひどく落ち着かない気分ではあるけれど。

 だんだん話が厄介になってきた。お母さんがおじいさんのことを悪いやつだと信じていて、僕をおじいさんと会わせたくないと思っていたならば、僕はお母さんのやっていたことが間違いだとは思わない。だから、このおじいさんが嘘つきの悪人だったなら話は簡単だったのだけれど、どうやら彼は血のつながった本物のおじいさんで――しかも嫌な人ではなさそうなのだ。

 お母さんにとっては悪い人だったかもしれないけど、僕にとってそうではない人。僕はこのおじいさんに、どんな態度をとったらいいんだろう。小さな頭で考えるにはあまりに難しい問題だ。

 そのとき、ぐう、と大きな音を立ててお腹が鳴った。びっくりしたのと恥ずかしさで僕はぎゅっとお腹のあたりを抑えた。

「おや、お腹が減ったのかい?」

 おじいさんが聞くと、かぶせるように背後からベネットさんが口を挟んだ。

「アキヒコ様、きちんと食べさせてもらっていなかったのですか? やっぱり、これだからロボットは信用が……」

「違うよ! あいつはお母さんと同じスープが作れるんだ」

 僕は思わず大きな声で反論していた。だって、お母さんがいなくなった日からずっと、食事を準備して僕に食べさせてくれていたのはあいつ、「APーZ92ーM」だ。外出先では出来合いのサンドウィッチですませることもあったけど、家にいるときはちゃんと、キッチンで温かい料理を作ってくれていた。

「あいつとは、エマの買った育児ロボットだね。へえ、では昼ごはんはスープを食べたのかい?」

「それは、あの……食べていなくて」

 少し体裁が悪かったけれど、正直に答えた。するとおじいさんは案の定、僕が昼ごはんを食べていない理由をきいた。

「どうしてだい」

「だって、嘘つきだと思ったから。あいつがお母さんのことで嘘をついていると思ったから僕怒っちゃって、おまえの作ったものなんか食べないって言ったんだ。だから朝から何も食べていないの」

 嘘をつくわけにはいかないから本当のことを、小さな声で答える。

 おじいさんは「お母さんは優しい嘘をついただけで、ロボットの言ったことが本当のことだ」と言っていた。「AP-Z92-M」が嘘つきではないのならば、彼を一方的に嘘つき呼ばわりした僕の方がひどい奴だということになる。

 人にひどいことをしたり、言ったりしたらお母さんはいつも僕を叱った。だからてっきりここでも叱られるのだと思っていたが、おじいさんは叱る代わりにサイドテーブルのベルを取って鳴らした。

「もう夕方だ、朝から食べていないのなら空腹になって当然だな。すぐに夕食の準備をさせよう」

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