第8話

 おじいさんがベルを鳴らすと、間もなく一人の女の人が部屋にやってきた。この広い家にはおじいさんとベネットさんと僕の三人きりしかいないと思っていたから、少し驚いた。

 女の人はお母さんよりはずっと年上に見えて、でもおじいさんよりはずいぶん若く見える。ちらりと僕に目をやるが、表情を変えることもない。

「夕食の時間を早めてくれ。アキヒコが腹をすかせている」

 おじいさんの言葉に、彼女は頭を下げる。

「承知いたしました」

 そして彼女は姿を消した。おじいさんは僕を見て「マーサは通いの家政婦だ。家事全般をやってくれる」と言った。

 でも今僕が考えているのは、マーサという女性のことではなかった。僕は空腹を思い出すと同時に、家に置いてきたロボット「AP-Z92-M」のことを思い出して、あいつのことが頭から離れなくなってきた。

 僕が朝ごはんを食べることを拒んで「おまえの作るものは食べない」と言ったとき、あいつが「お付き合いします」と言ったのを思い出す。僕が機嫌を直して何かを食べるまで自分も何も食べないと、あいつはそう言ったのだ。

 すごくお腹が空いた。そして、僕がこんなにも空腹でいるということは、あいつもお腹を減らしているということだ。

 今、あの部屋であいつは一人で空腹を抱えているのだろうか。もしかしてズルをして一人でこっそり何か食べただろうか。いや、きっと律儀に待っている、そんな気がした。だってあいつは嘘つきじゃなかったから。お母さんは「優しい嘘」をついていて、でもあいつは正直すぎて――もしかしたらロボットだからなのかもしれないけれど――本当のことを頑なに言い続けた。

 今では僕は、あいつを嘘つき呼ばわりしたことや、あいつにひどい態度をとったこと、行ってきますもさよならも言わずにアパートメントを出てきたこと、そういうことの全部を後悔していた。

 ここで僕がおじいさんと夕ご飯を食べたら、あいつはどうするんだろう。もしかしたら僕が食べるところを自分の目で見るまでは、ずっと何も食べないでいる気だろうか。考えているうちに僕はどんどん落ち着かなくなる。

 お母さんが信頼したロボット。

 お母さんがいなくなってから一番に駆けつけてきて、手を差し伸べてくれたロボット。

 ここにいるおじいさんのことを僕は嫌いじゃないけれど、でも僕はお母さんと暮らしたあのアパートメントを離れ、あのロボットを放ったままで、本当にここで暮らすんだろうか。想像すると胸の奥がぎゅっとして、ひどく寂しい気持ちになった。

「おじいさんは、寂しいの?」

 僕は顔を上げて、おじいさんに訊ねた。

「なぜそんなことを聞くんだ?」

「ここはとても広くて、でも人がちょっとしかいないみたいだから」

 本当に言いたいのはもっと違うことだったのかもしれない。でも僕は、おじいさんのことをなぜ寂しそうに思ったのか、その理由を全部うまく言葉にすることはできなかったから、そんな風にしか言えなかった。

 おじいさんはしわしわの手を伸ばして、今度はためらわずに僕の飴色の髪に触れた。本当は赤毛がよかったのだけど、僕の髪の色はお母さんとは違っている。

「そうだな、寂しいのかもしれないな」

 おじいさんは、僕に言っているのかひとりごとなのかわからない調子でぽつりとつぶやいた。おじいさんの触れ方は、お母さんとも、ナーサリーの先生たちとも、「AP-Z92-M」とも違っていて、その手は多分、僕がこれまでに出会った大人の中で一番不器用だった。だから、僕は顔を上げて、一生懸命訴えた。

「僕、毎週遊びにくるよ。面白い本も持ってるから、見せてあげる。いつも日曜日に会えるなら寂しくないよ」

 するとおじいさんは、笑いながら言う。

「……それはつまり、ここで暮らすのは嫌だっていうことだね」

 あっさりと真意を見透かされた僕はうまく返事ができなくて、黙り込んでしまう。そんな僕を見て、ベネットさんが慌てたように身を乗り出してきた。

「アキヒコ様、来るときにお話ししましたが、ロボットと生活するのは法的に……」

 でも、ベネットさんの訴えは途中でおじいさんに遮られてしまう。

「ベネット、法定後見人としての私の管理下で、この子が元いた場所でエマの残したロボットと暮らすことには何か問題はあるか。もちろん経済面を含む生活や、教育など必要な部分には適切な支援を行う」

 大声を出したわけでも、叱るような口調だったわけでもない。なのに、おじいさんが低い声でゆっくりと問いかけると、ベネットさんは空気が抜けた風船みたいに勢いを失ってしまった。

「……いえ、定期的な生活環境の確認など、後見人としての義務を果たせば、それ自体は。しかし、ラザフォード様」

「そうか、だったらすぐに手続きをとってくれ。そしてすぐに車の準備だ」

 正直「法的に」とか「後見人の義務」とか、言葉の意味はわからない。でも、二人の話を聞いていて僕は、おじいさんが僕が家に帰ることを許してくれたことを理解した。これまで暮らしてきたあのアパートメントに戻って、お母さんと暮らしていたみたいに「AP-Z92-M」と一緒に生活することを認めてくれたのだと。

 そしておじいさんは言った。

「アキヒコ、君が本当に危険なことをしようとしたり、道を踏み外そうとすれば、私は保護者として君を止める。だが、君がこんな田舎で年寄りの世話をして暮らすよりも、今まで通りの暮らしを続けたいと願うなら、それを止める権利もない」

「ありがとう、おじいさん」

 そして再会の約束と握手をして、僕とおじいさんはひとまずさよならを言った。

 帰りはあっという間だった。真っ暗だった窓の外はやがて、眩しい都会のネオンで賑やかになる。ほんの数時間離れていただけなのに僕はもう、家の近所の風景何もかもが懐かしく、恋しくなっていて、角の小さな食料品店や、古ぼけた協会や、深夜まで営業を続けるスーパーマーケットやテイクアウェイのお店の灯りすら、目に入ると嬉しくなる。

 ベネットさんは、別れ際に僕に電話番号が書かれた紙を渡して、何かあればすぐに連絡するように言った。そして、定期的に様子を見にくるし、日曜にはおじいさんの家に行くための車の手配をしてくれると付け加えた。

「うん、ありがとう」

「いいえ、これが私の仕事ですから。しかしエマ様のお子様らしいというか、あなたも頑固で風変わりなところがある。ロボットなんかと暮らしたがるなんて、私からすれば気が知れませんよ。エマ様に厳しくしすぎた反動なのでしょうが、ラザフォード様はあなたに甘すぎますね」

「おやすみ、またね」

 苦々しそうにつぶやく彼に、僕は手を振った。今はもう、一瞬でも早く僕の家に戻りたくてたまらない、頭の中はそれだけだった。

 一気に階段を駆け上る。息が切れたって構わない。

 ドアを開ける。

 そして、立ち止まる。

 あいつは――「AP-Z92-M」は、玄関入ってすぐの場所に座り込んでいた。僕が出て行ったときと同じ場所で、壁に背をつけて、膝を抱えて、虚ろな表情で宙をながめていた。そして、僕の姿を認めた瞬間驚いたような表情を見せて――すぐにまたあの、静かな笑顔に戻った。

「おや、早かったですね、アキ」

 まるで何もなかったように。ちょっとした散歩から帰ってきた子どもを出迎えるように、彼は微笑んでそう言った。

 理由は聞かれない。だから僕も答えない。

「うん、ただいま」

 僕は手を伸ばす。最初に手を伸ばしてくれたのは彼だった。だから今度は僕の番。言葉にはしないけど、ごめんねと仲直りの意味を込めて、大きくて冷たい手をぎゅっと握る。

 しばらく手を握り合った後で、「AP-Z92-M」はおもむろに立ち上がった。キッチンに向かう彼の後を、僕は雛鳥みたいについて歩く。「AP-Z92-M」は椅子の背に掛けたままだったエプロンを手に取り、慣れた仕草で身につける。

「お腹が空いたでしょう。スープを温めましょうか」

「うん、もうぺこぺこだよ。だからさ、ポーチドエッグも入れて」

――こうして、僕と機械仕掛け、二人の生活ははじまった。

 

(終)
2018.02.28-05.08

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