僕と機械仕掛けと仲直りの夕食

 黒いエプロンを身につけた「AP-Z92-M」は、キッチンコンロに火をつける。そして、スープの入った鍋とは別の小さなミルクパンに湯が沸きはじめる様子に、僕は居ても立ってもいられずに引き寄せられた。

「危ないから近寄らないでください」

「大丈夫だよ、いつもこうやって見てたもん」

 僕が言い返すと、「AP-Z92-M」は小さなため息をついてから、コンロがよく見える、けれどお湯が跳ねても届かない程度の場所にダイニングチェアを置き、そこでおとなしくしているよう僕に言った。

 彼の白い手が、ミルクパンにほんの少しのお酢を垂らす。割った卵をそっと流し込めば、透明だった卵の白身はゆらゆら揺れながら、見る間に白く色を変えていく。それはまるで魔法みたいで、だから僕はポーチドエッグを作るところを見るのがとても好きだった。

「アキ、お皿を出してください」

 ぷるぷると揺れる半熟の卵を引き上げて、「AP-Z92-M」は言った。ごく自然に、お母さんがよくやっていたように手伝いを頼んでくるものだから、僕は何も考えず椅子から飛び降りて、食器棚からスープ皿を取り出していた。キッチンもリビングもすっかりスープのいい香りに満たされて、僕のお腹はぐうぐう音を立てる。

「ありがとうございます」

 お皿を受け取りながら、「AP-Z92-M」が笑ったのは、もしかしたら僕のお腹の音が聞こえていたからなのかもしれない。彼は、お皿にたっぷりのスープを注いでポーチドエッグを載せると、それを手に持ちダイニングテーブルに運んだ。

 スープを目の前にすると、頰が痛いくらいにぎゅっとした。すごくお腹が空いているときに食べ物を目にするとほっぺたが痛くなることを僕は初めて知った。

 トマトと玉ねぎとベーコンの入った黄金色のスープをスプーンにすくって、口に運んだ。ほとんど一日ぶりの食事は今までに食べた何よりも美味しくて、僕はぺこぺこのお腹を満たすことに夢中になった。少し食べ進んだところでそっとスプーンをポーチドエッグに差し込むと、お日様みたいな色をした黄身がとろりと流れ出す。黄身が混ざるとスープの味が変わって、そこにパンを浸したものを口に入れると天国みたいな気分になるのだ。

 お母さんがいたら、叱られていたかもしれない。お腹を空かせた犬みたいにがつがつとスープとパンを頬張って、僕はしばらく「AP-Z92-M」が目の前に座っていることさえ忘れていた。

 彼のことを思い出したのは、お皿がほとんど空になってから。顔を上げるとそのロボットはにこにこして僕を見ていた。手にはスプーンを持っているけれど、お皿の中身はほとんど減っていない。不思議に思って僕は聞いた。

「お腹空いてないの?」

 こんなに小さな僕だって、こんなにお腹を空かせてスープをがっついているのだ。ずるをしてでもいない限り、僕よりずっと大きい大人である「AP-Z92-M」はもっとお腹をぺこぺこにしていておかしくない。なのに彼は自分が食べることよりも、僕が食べる姿を見ることに夢中になっているみたいだった。

「空いていません」

 彼は笑顔を崩さず、首を左右に振った。それを見て僕はなんだかがっかりしてしまった。だって、「AP-Z92-M」がお腹を空かせていると思ったから僕は、おじいさんの家の夕食も断って慌てて帰ってきたのだ。なのに、こいつは全然平気だったなんて。

「早く帰ってきたのに……」

 不満を口にすると「AP-Z92-M」は言った。

「私には水素と酸素で恒久的に動く内燃機関が内蔵されているので、食事は必要ないんです。もちろんユーザーに食事のマナーを教えたり、食卓を囲む相手になるニーズがあるので食事をとることもできるのですが、食べなくても動作に問題はありません」

 水素とか、酸素とか、内燃機関とか、難しい言葉はわからない。でも僕にだって、彼が「自分はお腹が空かない」「ご飯を食べなくても大丈夫」と言っていることは理解できた。

「……てことは」

 僕の間抜けな言葉に「AP-Z92-M」は笑顔でうなずく。

「ええ、お付き合いするとは言いましたが、何も食べずにいて困るのはあなただけですね」

 僕はあんぐりと口を開けて、手に持っていたスプーンを取り落とす。それはがしゃんと音を立ててスープ皿の上に転がった。

「やっぱり嘘つきだっ」

 思わず大きな声が出た。

 僕が食べるまで、自分も食べないと言った。だからお腹を空かせた僕は、同じくらいお腹を空かせた「AP-Z92-M」のことがかわいそうになってここに帰ってきたのだ。なのに、お腹は空かないし、ご飯なんていらないと彼は言っている。騙されたショックに僕は打ち震えるけれど、「AP-Z92-M」は落ち着いたものだ。

「違いますよ。こういうのはわがままな子どもをしつけるための方便っていうんです」

 方便という言葉の意味はわからないけれど、おじいさんが言っていた「優しい嘘」のことを思い出す。要するに大人はときどき嘘をつく。多分、もっともらしい理由をつけて。

「ちぇっ」

 お行儀の悪い舌打ちをして「AP-Z92-M」をにらむ。いくら「優しい嘘」だったとしたって、だまされるのはやっぱりなんだか悔しい。特にこいつの思うままになるのは癪に触る。

 仏頂面をしている僕に、「AP-Z92-M」は言う。

「そんな顔しないで。アキ、スープはまだありますよ。お代わりはいりますか?」

 すごく、すごく腹が立っているはずなのに、その笑顔とスープの匂いにはなぜだか逆らえない。僕は小さな声で「いる」とつぶやいて、スープ皿を彼の方に押しやった。

 

(終)
2018.05.11

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