いつもより一時間も早く目が覚めたのはうきうきしていたから。
あいつよりも早起きかもしれないと思ったらもっと浮かれた気分になって、僕はそっと部屋を出ると、小走りでキッチンへ向かった。でも、廊下に出ればすでに漂っているコーヒーの匂いに気づいてしまうし、リビングのドアを開けると、ダイニングテーブルに座って新聞を読んでいるあいつが澄ました顔を上げた。
「おはよう、アキ。早いですね。よっぽど今日が楽しみでしたか?」
そう言われると、今の今まで誇らしくてたまらなかった早起きのことがどうしようもなく照れ臭くて、顔が熱くなる。僕はあわてて数歩後ずさった。
「そ、そんなんじゃないよ。ただ……ちょっと、目が覚めちゃったんだ」
そう、お母さんが死んでしまってからしばらく休んでいたナーサリーに、僕は今日からまた通う。たまには朝起きるのが面倒なこともあったし、お母さんの具合が悪くなってからはほんの少しも離れたくなくて、ナーサリーに行くのは嫌いだった。でも不思議なことに、数週間も休んでいるとだんだん先生のことも、友達のことも懐かしくなってしまう。
毎日このロボットの顔を見ているだけだから、多分飽きちゃったんだ。そう思って、コーヒーカップを手にした若い男の顔を横目で伺う。細身で色の白い若い男。でも彼は人間ではない。人間そっくりに作られた育児支援ロボットで、お母さんが死ぬ前に買ってくれたものだ。成人するまで僕の世話をする約束なのだという。
「そうですか。もう朝食にするなら準備します。どうしましょうか」
「い、いつもの時間でいい」
気まずさを感じるのは、ただ早起きの理由を当てられてしまったからではない。一時間早く見るロボット――「AP-Z92-M」の様子は、いつもと少し違っているようで、僕は知らない人と会ったみたいに恥ずかしくなってしまったのだ。
アイロンの効いた白いシャツも、プレスされた黒いズボンとピカピカに磨いた黒い靴もいつもと変わらないのに、その目元はいつもよりほんの少しぼんやりしていて、うなじにかかる髪がひと房、わずかに寝癖で跳ねている。
そういえばロボットは夜、人間みたいに眠るんだろうか。考えごとをしていると眠れなかったり、夜中に怖い夢を見て目を覚ましたり、早起きが辛かったりするんだろうか。彼はいつも僕が眠りにつくまでベッドの横で見守っているし、僕が起きる時間には目を覚ましている。だから夜中の彼がどんな風なのかはまったくわからない。
「コーヒー、僕も飲みたい」
焦げ臭い匂いは好きじゃないけど、「AP-Z92-M」の手元のコーヒーのカップを見ていると、興味が湧いてきた。しかし彼はゆっくりと首を振り「ダメです」と言って僕の手が届かない場所にカップを移動させる。
「どうして僕はだめなの?」
「だって、あなたは子どもだから。小学校に入ったら、ミルクをたっぷり入れたものならば飲ませてあげます。でも今はだめです」
だめだと言われると途端に悔しくなる。
「だったらおまえはロボットじゃないか」
「ロボットでも、水分は必要なんです。匂いが好きなのでコーヒーは飲みますね。あなたみたいな小さな子どもとは違って、カフェインを摂ることも問題ありませんから」
彼は立ち上がると小鍋にミルクを注ぎ、しばらくして温まったそれをマグカップに入れて僕に差し出した。悔しいけれど仕方ないから、僕はパジャマのままでソファに座りミルクを飲んだ。それは温かくてほんのり甘くて、あの泥みたいに黒いコーヒーよりずっと美味しいに決まっている。
* * *
「アキくん、戻って来てくれて嬉しいわ。そちらは?」
事前に今日から通園を再開するという連絡をしてあったようで、担任のナディア先生が園の玄関まで迎えに出てきてくれた。
大変だったわね、と言ってぎゅっと抱きしめてくる先生の体は柔らかくて温かくて、そんな風に抱きしめられるのは久しぶりだった僕は少し面食らってしまう。「AP-Z92-M」は普段、僕の頭を撫でたり手を握ったりすることはするけれど、抱きしめることはあまりしない。それに、抱きしめられたって、その体は手と同様に冷たくて、細くて固い。
「えっと……お母さんが買った、ロボット」
ナディア先生の視線は僕の背後に立つ「AP-Z92-M」に注がれていたので、僕はおずおずと答えた。彼をなんと紹介すれば良いかわからなくて戸惑ったのだ。
「あら、ごめんなさい。そうは見えなくて……」
先生は口に手を当てて、気まずそうな表情をした。僕がそうだったように、ナディア先生も種明かしをされるまで彼がロボットだとは気づいていなかったのだ。しかし先生は、彼がロボットだと知っても特に態度を変えることはしなかった。礼儀正しく「AP-Z92-M」に訊ねる。
「初めまして。なんてお呼びすれば?」
「いえ、特に名前はないんです」
よそ行きの顔で笑ってそう言った「AP-Z92-M」は、お昼寝用の毛布や、万が一のときの着替えなど、ナーサリーで必要なもの一式を先生に渡すと僕に手を振って帰っていった。もちろん「アキ、いい子にするんですよ」と釘をさすのも忘れずに。
「今の、何?」
僕には先生と「AP-Z92-M」のやりとりの意味がわからなかったから、聞いてみる。すると先生は僕と同じ目の高さまでしゃがんでから言った。
「名前があるか聞いたのよ。だって『アキくんのロボットさん』って呼ぶの、なんだかおかしいじゃない」
「でも、ロボットはロボットだよ」
すると先生は少し困ったような表情を見せてから、少し離れた場所で別の子どもを出迎えているポリー先生の方に目を向けた。ポリー先生は僕のクラス担当の、ロボットの先生だ。
「ロボットの先生たちにもそれぞれお名前があるでしょう。アキくん以外に送り迎えをおうちのロボットにしてもらっている子もいるけど、みんな名前があるわ」
「ふうん」
僕はこれまで、「AP-Z92-M」の名前のことなんて考えたことがなかった。病院の人も、葬儀屋の人も、ベネットさんもおじいさんも、誰もあいつに名前がないことなんか気にしていないようだったから、それが当たり前なのだと思っていた。
「アキくんは、彼のことをなんて呼んでいるの?」
僕の荷物を手に持ち、教室に向かって歩きながら先生は聞いた。
「……おまえとか、あいつとか」
だって、それ以外の方法は知らなかったし、それ以外の方法が必要だってことも、誰も教えてくれなかったのだ。
「うーん。先生、名前をつけたほうがいいと思うな」
先生はそう言った。
確かにお母さんも、僕が知らない子のことを「あいつ」呼ばわりしたらいつも失礼だって注意してきたけれど――それにしてもあいつはロボットだし。でも、僕はナディア先生に無礼な子どもだと思われるのが恥ずかしくて、それ以上の言い訳はやめておいた。
* * *
「先生に、変って言われたんだ」
家に帰った僕が、ナディア先生から「AP-Z92-M」に名前をつけるべきだと言われたことを話すと、彼は小さく眉をひそめた。
「そんなことありませんよ。名前のないロボットなんていくらだっています」
ロボットは気持ちが顔に出にくいと聞いたことがある。ナーサリーや街で見かける人型ロボットと比べてもとりわけ人間そっくりな「AP-Z92-M」だけれども、顔色を変えて怒ったり、顔を歪ませて笑ったり泣いたりすることはないし、ほとんど穏やかな笑顔を崩す事はない姿はずっと見ているとやっぱり人間とはちょっと違うんだと思ってしまう。そんな彼だけれど、今みたいに僕に呆れたり、わがままを叱るときはちょっとだけ表情が動くから面白い。
本当は、ベネットさんが僕をおじいさんのところに連れて行こうとしたときのように、「AP-Z92-M」があからさまに動揺して取り乱すところも、ちょっとだけ見てみたい気がする。でもあんな姿はあのとききりで、捕まえてきたカエルを彼の手に乗せても、びっくり箱を開けさせても、いつだって飄々としている。
コトン、と音がしてテーブルにカップと皿がおかれた。今日のおやつは麦芽ミルクとビスケットだ。
「でも、ブラウンさんのところの猫だって、お散歩のときにいつも会うカーンさんのおじいさんの犬にだって、名前はあるよ。博物館の恐竜なんか、骨だけなのに名前がついてるじゃないか」
呆れた顔をされたことで、僕はだんだんむきになってきた。「AP-Z92-M」に、僕の言い分はおかしくないのだと認めさせたくて、思い浮かぶ限りの理由をまくし立てた。しかしその訴えにはあまり効果はないようだ。
「あの骨格標本は、マスコットとしての愛称なので別の話だと思いますが。犬猫と比べられても、私はあなたのペットではありませんし。あなただってテレビや洗濯機に名前などつけないでしょう」
ビスケットをかじる僕を眺めて「AP-Z92-M」は諭すように言う。確かに犬猫と彼を一緒にしたのはおかしかったかもしれない。でも、だからといってテレビや洗濯機と彼を一緒にするのも何か違っている。だって、テレビや洗濯機は僕の手を握ったりしないし、寂しい夜に眠るまで見守ってくれたりしないし、僕がおじいさんのところで暮らすと言っても決してそれを止めたりはしないだろう。でも、僕にはまだそんな考えを言葉に変えて口に出すのは難しい。
「先生に、なんて呼んでるのか聞かれて、『おまえ』とか『あいつ』って答えたら、お行儀が悪いって言われたんだ」
気持ちがうまく伝えられないのが悔しくてもどかしくて、ちょっと涙目になってしまったかもしれない。温かいマグカップをぎゅっと握って昂ぶる気持ちをやり過ごそうとしていると、そんな僕を眺めていた「AP-Z92-M」の表情がふっと緩んだような気がした。
「……それはそうかもしれませんね」
珍しく、彼が折れた。そして「AP-Z92-M」は僕に、好きな名前をつけてくれて構わないと言った。彼の持ち主は僕だから、何とでも呼べばいい、と。
「本当?」
一気に涙も引っ込んだ。彼を説得できたことが嬉しかったし、好きな名前をつけていいと言われたことにもわくわくしてくる。すぐにでもノートとペンをとってきて、名前のアイデアを書き出さなきゃ。僕は残っていた麦芽ミルクを一気に飲み干して、椅子から飛び降りた。
空っぽになったカップとお皿を片付けながら、「AP-Z92-M」がつぶやく。
「アキ、あなた、ナディア先生に変だと言われたのを気にしているんですね。その年頃から若くてきれいな女性に弱いなんて、先が思いやられますよ」
* * *
「で、名前で悩んでいると?」
テーブルにノートを広げてうなっている僕に、おじいさんが言った。僕が僕のロボットに名前をつけることが決まってから三日。まだ僕は名前を決めきれていなかった。
今日は日曜日だから、前に約束した通りおじいさんの家を訪れる。朝ごはんが終わった頃にベネットさんがピカピカの黒い車で迎えにきてくれて、郊外のおじいさんの家へ向かう。一緒にお昼ご飯を食べて、おしゃべりをしたり遊んだりして、午後のお茶も一緒にして、夕ご飯に間に合うように家に帰ることになっている。
「うん。おじいさんは名前つけたことある? お母さんの名前は誰がつけたの?」
「エマの名前をつけたのは、妻――君のおばあさんだ。私はどうもそういうのは苦手だった。まあ、馬の名前くらいならつけたことがあるがな」
「どうやって決めたの?」
馬だって名前は名前だから、きっと参考にはなる。僕は隣に座るおじいさんに向かってぐっと身を乗り出した。
「いや、そんなに深く考えたわけでは。まあ一般的には先祖や過去の偉人からとるとか、好きな本の登場人物とか、あとは植物の名前とか」
「うーん。なんか難しいな。お母さん、あいつに名前つけておいてくれたらよかったのに」
結局は、思いつくままを乱雑に書き散らしたノートを前に二人して途方にくれてしまう。おじいさんもあまりこういうのは得意ではないみたいだ。
そこでふと、少し離れた椅子で書き物をしていたベネットさんが口を開いた。
「もしかしたら、名前は、あるんじゃないでしょうか」
「え?」
それは意外な言葉だった。だってあいつは僕が名前の話をしたとき、自分がすでに名前を持っているだなんて言わなかった。前の僕だったらすぐさまベネットさんを嘘つき扱いしていたかもしれないけれど、今の僕はあのロボットがしたたかにも時には「大人の方便」を使うことを知っているから、彼の言葉に耳を傾ける。
「家裁の手続きのためにエマ様と『電子的家庭支援社』の契約書類を確認しましたが、あの『AP-Z92-M』はリストア品のようでした。もしかしたら前の持ち主が名前をつけていたかもしれません。記憶媒体が初期化されている場合はともかく、家事支援ロボットの場合は、わざわざそこまで手間をかけることは少ないでしょうから」
「リストアって何?」
僕の疑問に答えてくれるのはおじいさんだ。
「中古ってことだよ。前に他の誰かの手元にあって、不要になったりトラブルがあったりで返品されたものがメンテナンスをして再度売りに出されるんだ」
「え、あいつ、前にもどこかにいたってこと?」
自分でもなぜだかわからないけれど、声には驚きの他に、ちょっとだけ不愉快な気持ちが混ざった。僕はなぜだかわからないが、あいつを僕の世話をするために作られたように思っていた。だから、僕の家にくる前に、あいつがどこかで誰かに対して同じように――髪を撫でたり、食事を作ったり、笑って話を聞いたり――していたのだと思うと面白くない。
「ええ、まあ。いくら家庭用でも育児支援ロボットの長期レンタルはそれなりにお値段も張りますので、ラザフォード様に頼ることを良しとしないエマ様にはリストア品でも相当頑張られたのだと思います。しかも女性タイプより人気もなく値段も安い男性型」
ベネットさんは、余計なことを言ってしまったと思ったのか、ごほんとひとつ咳払いしてからあまり言い訳にもなっていないようなことをぶつぶつとつぶやいた。
「ふうん」
でも僕は、あいつが男の形をしたロボットでよかったと思う。だって。女の人の姿をしていたらもっとお母さんと比べたりしてしまっただろうから。
そんな感じで、結局おじいさんのところでも決定的な良いアイデアは出ないままだった。約束どおり夕方に帰宅して、食事をすませてから僕は改めてノートを手にして「AP-Z92-M」と向かい合った。
「で、良いアイデアは浮かばなかったものの、おじいさまからも名前はあったほうが良いと言われたと」
「うん。だから考えてたんだけど、ポピーとか」
「それは、ブラウンさんの猫の名前ですよね」
どうやらお気に召さないらしい。
「嫌? じゃあ、ローズ」
「それはキースさんのポメラニアンの名前ですし、そもそも私に似合うとは思いませんが」
「じゃあ、ココ」
「それは朝の子供番組に出てくる着ぐるみの……」
「なんだよ、文句ばっかり」
僕は大きくため息をついて、ノートを閉じる。これでも一生懸命考えたのに、あれも嫌、これも嫌、ではらちがあかない。僕の好きなように呼んで良いと言った割には全然同意してくれない。まあ確かに自分でも今言った名前はどれも彼にはあまり似合わないと思っていたのだけれど。
「別に、名前なんかなくたっていいじゃないですか」
彼はとうとうそんなことを言い出すけれど、とてもではないが納得はできない。
「でもAPなんとかっていうのも覚えきれないし、やっぱり呼び名はいるよ。そうだ、ねえ、ベネットさんが、おまえには前に別の持ち主がいたって言うんだ。そいつにはなんて呼ばれていたの?」
「えっ」
はっと目を見開いて、明らかな動揺。それから――。
「……お、覚えていませんよ」
「嘘つき! 僕には嘘をついちゃ駄目だって叱るのに、ずるいよ」
大人の嘘が上手な「AP-Z92-M」にしては珍しいともいえる見え見えの嘘を問い詰めると、彼はしばらくして白旗をあげた。
「わかりました。まったく、あなたは妙なところで勘が鋭いんだから」
「お説教はいいから、名前、名前!」
僕がテーブルを叩いて急かすと、困ったように笑ってから彼は小さな声で言った。
「サーシャ。そんな風に呼ばれていたこともあります」
「僕もそう呼びたい!」
彼に似合う良い名前だというのが正直な感想だった。少なくとも僕のノートに書きつけてあったポピーやローズやココと言った名前よりは百倍もいい。僕よりよっぽど上手に誰かが彼に名前をつけていたことを少しくらいは悔しいと思う。でも、一度耳にしてしまえば僕も彼のことを「サーシャ」としか思えなくなった。
でも、彼の表情はなんだかはっきりしない。笑った顔と困った顔の真ん中みたいな、嬉しい気持ちと寂しい気持ちの真ん中みたいな、そんな風。いつも以上にロボットっぽくない、微妙な顔をして黙ったままでいる。だから僕は次第に不安になってきて、しばらく彼と同じように黙り込んでからおずおずと口を開く。
「でも……おまえが嫌なら、やめとくけど」
例えば僕だって、お母さんが僕を呼ぶときに使っていた「アキ」という呼び名をよくわからない人に使われたら嫌な気持ちになる。よくわからないけど、「サーシャ」が彼にとって、あんまり好きじゃない名前だったり、もしくは大事にとっておきたい名前だったりしたら、僕がそれを勝手に取って好きに使うのは良くないことだと思う。
不安になって彼の顔色を伺う僕に、ゆっくりと「AP-Z92-M」の表情が溶けていく。困った顔も、寂しいような感じも、嘘みたいに消える。
そして彼は笑った。
「構いませんよ。アキ、あなたがそう呼びたいならば」
「本当!?」
嬉しくて、僕はノートを再び開くとペンのキャップをとって彼の前に差し出した。文字を覚えたての僕のミミズがのたくったような字でいっぱいのページをめくり、新しい、真っ白いページを前に彼に、名前のスペリングを教えてくれるよう頼む。
こうして育児支援ロボット「AP-Z92-M」は、その日から僕のサーシャになった。
(終)
2018.05.20-06.06