僕と機械仕掛けとベネットさん

 ナーサリーからの帰り、アパートメントの前でポピーと会った。ポピーは、同じアパートメントに住むブラウンさんというおじいさんの飼い猫だ。

「ポピー、元気?」

「やめなさい、アキ。引っかかれますよ。その猫は獰猛です」

 サーシャが僕のシャツの襟を引っ張って止めようとする。ポピーはかわいらしい外見に似合わず、すごく気まぐれなのだ。狩りも上手くて、この間はアパートメントの共用階段に点々と血の跡があったので、誰かが怪我でもしたのかと心配していたら、それはポピーが捕らえてきたネズミのものだったことがあった。

「大丈夫だよ、今日は機嫌良さそうだし。ポピー、いい子だね」

 サーシャはあまりポピーのことが好きではないみたいだけど、僕は犬も猫も大好きだ。普段は僕が手を伸ばしても優しい声で呼びかけても冷たい顔ですり抜けていくポピーが、なぜか今日は「ニャアン」と甘えた声を出してすり寄ってきたから、僕は嬉しくなってしまい、しゃがみこんでその体を撫でてやる。こんなチャンスはめったにない。

「アキ、まだその猫と遊ぶ気ですか」

 しばらく黙って僕とポピーを見守っていたサーシャは、やがて腕時計に目をやってからそう言った。

「だって、ポピーがこんなにおとなしく触らせてくれること、めったにないもん。もうちょと遊びたい」

 サーシャは形の良い眉を少しひそめた。地面にしゃがみこんでいる僕と、歩道で気持ち良さそうに腹を見せるポピーをもう一度まじまじと眺める。

「あと十分で客人がやってきますから、私は帰らなければ。どうしてもその猫と遊びたいならおひとりでどうぞ。ただし、猫が思いもよらない動きを見せたからと言って、道路に飛び出したり、遠くへ追いかけたりしてはいけませんよ。絶対に日没までには帰ってくると、約束できますか?」

「うん!」

 もちろん僕は即答する。いつだって口うるさいサーシャが、僕がひとりで外にいることを許してくれるのは珍しいから、なんだかわくわくしてしまう。何しろ僕は、もうすぐ六歳になる。ひとつお兄さんになるのだから、お世話ロボットがいなくたってひとりで外で遊ぶことくらい許されたっていいはずだ。

「絶対に危ないことはしないと、約束ですよ」

 サーシャはもう一度僕に釘を刺して、アパートメントに入っていった。

 ちょうど十分後に、見慣れた黒塗りの自動車がやってきて、止まる。そこから出てきたのも見慣れた人影だった。

「おや、アキヒコ様。おひとりですか?」

 僕のおじいさんの顧問弁護士であるベネットさんは、猫と遊ぶ僕の姿に目を止める。毎週日曜日におじいさんの家に遊びに行く僕を送り迎えしてくれるのは彼だが、平日の夕方にやって来るのは珍しい。一体なんの用事だろう。

「サーシャは、お客さんが来るからって」

「あなたにひとりで遊んでいいと?」

 ベネットさんは苦虫を噛み潰したような顔をした。僕はしまったと思う。ベネットさんはサーシャのことがあまり好きではなさそうだ。最初から、僕はお世話ロボットなんかとではなく、おじいさんと暮らすべきだと言っていた。だから、もしかしたら今も、サーシャが僕を外でひとりにしていることを、「正しくない」と思っているかもしれない。そしてそれを誰かに言いつけるつもりなのかもしれない。

「今日だけ、ポピーの機嫌がいいから。……それに、危ないことは絶対にしないって、約束してる」

 もしこれを理由に、やっぱりここでサーシャと暮らしていてはいけないと言われたら、嫌だ。不安になった僕はぎゅっとポピーを抱きしめながら、慌てて言い訳をした。

「まあ、そうですね。それに、話をするにはあなたがいないほうがいいでしょう」

 ベネットさんはメガネを触りながらそうつぶやいて、アパートメントに入っていった。そこで僕は、どうやらサーシャの言っていた「お客さん」がベネットさんであるらしいことに気づいた。僕にではなく、サーシャに会いにくるなんて珍しいことだ。

 僕はベネットさんの後ろ姿が階段を登り消えて行くのを眺めながら、なんだか不安になってくる。最初にベネットさんがここにやってきたときみたいに、彼とサーシャがひどいけんかをするのではないかと思った。サーシャは口うるさい皮肉屋だけど、僕にご飯を作ってくれたり寝かしつけてくれたりするときは優しい。ベネットさんは顔が怖いし難しいことばかり言うけど、悪い人ではない。どちらのことも好きだから、本当は仲良くしてほしいのに、また大げんかをされてはたまらない。

「あっ」

 僕の気がそぞろになったのを察したのか、手の中からするりとポピーが抜けて、どこかへ駆け出していく。僕はこっそり部屋に戻って、サーシャとベネットさんがどんな話をしているのか聞き耳を立てて見ることにした。

 足音を忍ばせてそっと階段を登り、玄関の扉を開ける。廊下にしゃがみ込むと、サーシャの柔らかい声が聞こえてきた。

「アキの身長と体重の増加は同年齢の平均を概ね8%ほど上回っています。良好といえるでしょう。言語レベルは平均以上、やや情緒的で幼稚なところは目立ちますが、これは繊細な時期に母親を失った子どもとしてはよくあることです。社会生活において問題を起こすほどではないと言えます」

 僕の名前が出たので、ビクッとする。

「それは何よりだが、心象としてどうだ?」

 ベネットさんはサーシャの報告にはあまり興味がなさそうで、さらりと聞き流すと質問をする。僕には「心象」という言葉の意味がわからないが、サーシャも同じなのか聞き返した。

「心象?」

「データ以外の部分で、おまえはアキヒコ様の様子はどうだと思っている? おまえと二人だけの生活に問題はなさそうか? 疑っているわけではないが、ロボットだけに養育される例はあまりないから、しつこく聞かざるを得ない」

 やはりベネットさんは、僕の話をしにきたのだ。けんか腰ではないし、サーシャも落ち着いた様子ではあるけれど、ベネットさんが僕とサーシャだけの生活を今でも良く思っていないことに、少し嫌な気分になる。誰とどこで暮らすかは僕が自分で決めていいとおじいさんは言った。ベネットさんもその言葉にうなずいたのに、僕のいないところでこんな風にサーシャを問い詰めるなんて、なんだかひどい。

「ええ、ご心配は理解します。成長プロットに悪影響が出ていない以上、必要な働きはしているかと思いますが、それ以上何かお望みの答えがあるでしょうか? データ以上に確実なものなど、私は知りません」

 サーシャがそう答えるのが聞こえ、続けてベネットさんが小さく笑う。

「まったく、反応に面白みがないな。これだからロボットは」

「規定外の行動を取られてもお困りでしょう」

 ベネットさんのあきらめたような言葉に、サーシャも少し笑ったようだった。いつも通りのサーシャの声色、落ち着いた、柔らかい話し方。なのに、いつも僕と話すときとは全然違って聞こえる。僕は、僕のいない場所でサーシャが僕の知らない振る舞い方をするのを面白くないと思った。

「まあ、そりゃそうなんだが。しかし意外だな、最初に会ったときのおまえはもっと――」

「おかわり、いかがですか?」

 サーシャはベネットさんの言葉をごく自然にさえぎった。そしてベネットさんが「もらおうか」と返事をすると同時に、僕はわざと大きな音を立ててリビングのドアを開けた。

「ただいま!」

 二人の視線が一気に僕に注がれる。ドア越しに聞くサーシャの様子はいつもと違っているようだったが、キッチンに立つ彼の姿はまったくいつも通りだ。なんとなく安心してしまう。

「アキヒコ様、お帰りですか」

「何しに来たの?」

 わかっているけど、一応確認する。

「月に一度の様子確認ですよ」

「別に、おじいさんのところで毎週会ってるじゃないか」

 わざとでないといえば嘘になる。僕の言葉には少しだけベネットさんを責めるような調子が混じり、彼は気まずそうに小さく肩をすくめた。

「それはそれとして、あなたとこいつがどんな生活を送っているかを確認する必要があるのです。ただの家庭裁判所のルールですよ」

 よくわからないけど、決まっているから仕方ないことで、自分がサーシャに意地悪をしているわけではないと言いたいのだろう。とりあえずベネットさんが僕をここでない場所へ連れて行こうとしているわけではないのなら、怒る必要はない。

 安心したら急にお腹が空いてきた。ベネットさんの前には紅茶のカップと、レモンケーキの載ったお皿が置いてある。ケーキはサーシャのお手製で、僕のお母さんが作ったのと完全に同じ味がする。つまり、絶品だ。

「サーシャ、お腹すいた」

 空腹を訴えると、サーシャが振り返る。手に持った花柄のティーポットからベネットさんのカップにおかわりを注ぎながら、僕に言う。

「あなたのおやつも準備しますから、少々お待ちください。お客様のお皿に手を出すんじゃありませんよ」

 サーシャは僕がチラチラとベネットさんのケーキを見ていることに気づいて、咎めた。でも、僕はベネットさんが病院の先生から甘いお菓子を禁止されていることを知っている。

「だって、ベネットさんはどうせ甘いの食べないよ」

「そういう問題ではありません。お行儀が悪いと言っているんです」

 ベネットさんとふたりで話していたときのサーシャはいつの間にかどこかへ消えてしまい、今キッチンにいるのはいつも通りの、口うるさくてマナーに厳しいサーシャだ。

「ちぇっ。うるさいんだから」

 それは小さな独り言だったはずだけれど、耳のいいサーシャには聞かれてしまう。ケーキを切ろうとしていたサーシャが振り返り、僕をじろりとにらんだ。

「アキ、あなたがきちんとしてくれれば私は何も言わないんですよ。あと、帰ったらすぐに手を洗いなさい。動物を触ったのだから、いつもより長く、しっかり洗うんですよ」

 言われた通りにしなければ、ケーキはもらえない。踏み台に乗ってシンクで手を洗いはじめる僕と、きちんと指の間や爪の中まで洗っているかを厳しく監視するサーシャを眺めるベネットさんが満足したようにふとつぶやいた。

「ふむ、まあ問題はなさそうだ」

 

(終)
2018.07.01