「ご機嫌ですね、アキ」
翌週の土曜日、朝ごはんを食べている僕をじっと眺めてからサーシャは言った。
僕たちはダイニングキッチンのテーブルに向かい合って、サーシャは砂糖もミルクも入れないコーヒーを飲んでいる。僕の前にはトーストとチーズオムレツ。トーストは薄くてカリカリで、半分だけバターとママレードをたっぷり塗ってもらったし、柔らかそうなオムレツは黄色く輝いている。
もちろん好きなものばかりが並んだ朝ごはんのテーブルは、僕の気分を良くしてくれる。でも今日の僕はそれ以上にわくわくした気持ちでいた。
「夢を見たんだ。自転車に上手に乗れるようになった夢。緑で、ぴかぴかで、すごくかっこいいんだ。補助輪なしで乗れるようになったらサーシャにも見せてあげるよ」
おじいさんのところへ行くのは明日、日曜日。まだ一日早いにも関わらず、自転車の練習が待ち遠しくてたまらないからか、昨晩は自転車の夢を見てしまったのだ。サーシャはまだ見たことのない新品の緑色の自転車。
先週はじめて乗ってみたときは思ったようにはうまくいかず、転んで膝を擦りむいてしまった。でも、僕の友達で、僕よりずっと走るのが遅い子も、僕より高い木に登れない子も、もう補助輪なしで自転車に乗ることができるのだと言っていた。だからきっと僕はすぐに彼らより上手く、すいすいと自転車を乗りこなせるようになるだろう。
でも、サーシャの返事は冷たい。
「結構ですよ。あなたがこのあたりの路上でふらふら自転車に乗っているところなんて、想像するだけで心臓に悪い」
そう言ってコーヒーを一口飲み、手元の新聞に視線を落とした。
僕が自転車に乗ることにサーシャが反対していることは知っている。おじいさんのプレゼントだから嫌々、日曜日だけ、しかもおじいさんの広い庭でだけ自転車の練習を許してくれたこともわかっている。でも、せっかく僕が楽しみでうきうきしているところにこんな言い方って、ない。
「何だよ、心臓なんかないくせに」
悔しかったから僕は頬を膨らませて彼に憎まれ口を叩いた。実際のところ彼はロボットだし、ロボットの体は人間とは全然違うのだと聞いたことがある。
「まったく、減らず口ばかり上手になりますね。慣用句的表現ですよ、ところでアキ、私からのプレゼントは決めましたか?」
サーシャは僕の言葉に嫌味で返すが、それ以上自転車についての話を続けるつもりはないみたいだった。ここでけんかをしたって朝ごはんがまずくなるだけだから、僕だって話題が変わるのは歓迎だ。でも、プレゼントの話となるとちょっとだけ厄介だ。
「……まだ考えてるとこ」
そう言いながらフォークでオムレツを真ん中から割ると、中からとろりとチーズが流れ出した。僕はバターとママレードを塗っていない半分のトーストに、チーズと柔らかい卵の混ざったものをたっぷりと乗せて口に運ぶ。
「誕生日のプレゼントですから、あまり遅くなるのは良くありません。大方あなたのことだから、自転車をねだるつもりが、サー・ラザフォードにもらってしまったから、次点が決まらず悩みこんでいるのでしょうけど」
サーシャはナフキンを持った手をテーブル越しに伸ばし、僕の口のあたりをぐいと拭う。真っ白い布に小さな黄色い染みができた。
「考えてるんだよ、ずっと」
僕はもう一度繰り返した。サーシャの指摘は半分は正しいけれど、半分は間違っている。確かに自転車は欲しかったけれど、一番かというとそういうわけでもない。それに、頼んだところでサーシャが買ってくれるはずがないことはわかっていたから、自転車をお願いするつもりは最初からなかったのだ。僕はずっと「自分がサーシャからもらいたいものは何か」を考えていて、それがわからなくて困っていた。
僕は一番欲しいものをサーシャからもらいたかった。なぜそんな風に思ってしまうのかはわからないけれど、僕にはもうお母さんはいないから、だったら毎日ずっと一緒にいて一番身近なサーシャから、特別な贈り物をして欲しかった。でも、欲しいものをたくさん思い浮かべて、順番にそれをサーシャからもらうところを想像してみると、やっぱり何か足りない気がしてくるのだ。
それでも誕生日プレゼントにはタイムリミットがあるかもしれなくて――あまり遅くなったらサーシャの機嫌が変わって、やっぱり何もあげないと冷たく言われてしまうのではないかと不安で、僕は少し焦っていた。
「今のところね、第一候補は猫なんだ」
何日もかけて考えて、今のところ一番いいアイデアだと思っているものを、とりあえず口に出してみた。しかしサーシャ冷たく首を振った。
「……生き物はだめです」
「なんでだよ、そんなルール聞いてない」
だめだと言われると、それまでただのひとつの候補でしかなかった子猫が、すごく欲しくなってくる。僕は思わず大きな声でサーシャに食ってかかった。
「だって、あなたがそんなもの欲しがるとは思わないから」
そんな後出しで納得できるはずがない。しかも僕が欲しがっているものを「そんなもの」呼ばわりするなんてひどい。
「そんなもの、じゃないよ。僕が猫好きなの知ってるだろ。あ、サーシャもしかしたら猫が怖いの? ポピーにも全然触らないしさ」
僕はフォークを放り出して、抗議を続けた。しかしサーシャは澄ました顔で「絶対にだめです」と繰り返すだけだった。
「意地悪。サーシャなんか嫌いだ」
「嫌いで結構です。あなたに好かれるために好き放題わがままさせるのは、私の仕事ではありませんから」
最後の武器である「嫌いだ」の一言もあっさりかわされてしまい、僕にわかるのはこれ以上何を言ったところでサーシャは決して猫を飼うことを許してくれないだろうということだけだった。
僕はまだ半分残っているオムレツをそのまま残して、ごちそうさまも言わずにダイニングチェアを降りた。サーシャは批判混じりの目でちらりと僕をみてあからさまなため息をついてみせたけれど、それ以上僕を叱る気はないようだった。
嫌い、というのは嘘。ただ、ああいう風に僕の好きなものを否定されると寂しくなってしまう。
僕の好きなものをサーシャも好きになってくれればいいのに。だって一緒に暮らして、ずっと一緒にいるんだから、好きなものだって同じ方がきっといい。だから、おじいさんにもらった緑色の自転車だって、ブラウンさんのところのポピーやそれ以外の猫だって、全部全部、サーシャにも好きになって欲しいと僕は思っているのに。