第3話

 家に帰ってからもビビとのことが頭から離れなくて、僕はずっと嫌な気持ちのままでいた。涙はすっかり引っ込んでいたけれど、わくわくしていた小学校最初の一日をあの女の子から全部台無しにされてしまった。そう思うと悔しくてたまらない。

「アキ、どうかしたんですか? 浮かない顔をして」

 本を読む気にもおもちゃで遊ぶ気にもなれなくてソファでごろごろしていると、あおむけに寝転んだ僕の真上からひょっこりとサーシャが見下ろしてくる。キッチンからはいい香りが漂ってきているから夕食の準備が一区切りついたのかもしれない。

「別に、何でもないよ」

 僕はごろりと体を回転させてソファの背もたれに顔をうずめて、サーシャの視線から逃れようとした。

 学校でのことは話したくなかった。最初の日から女の子と言い合いになって、しかも先生に叱られたことをサーシャに知られるのはすごく恥ずかしい。でも、サーシャは誰とも話をしたくない僕の気持ちなんかおかまいなしに、すっと腕を伸ばすと僕の体を軽々と持ち上げてソファにしっかりと座らせた。サーシャは男の人の割には小柄で線が細いのに力はすごく強いのだ。以前「サーシャは何でそんなに力持ちなの?」と聞いたときには、「ええ、力仕事がこなせるように設計されていますから」と澄ました顔をしていた。

 僕の座る真ん前の床に膝をつくと、サーシャはじっとこちらをのぞき込んでくる。その瞳は少し潤んでいてとても不安そうに見えた。いくら目をそらそうとしてもしつこく追いかけてくるものだから音をあげたのは僕の方だった。

「何だよ、僕には人をじろじろ見ちゃだめって言うくせに。放っておいてよ」

 どうせいつものように、よくわからない大人の理屈で煙に巻かれてしまうんだろう――ちょっと投げやりな気持ちで口にした文句に、意外にもサーシャは深刻な顔をした。

「放っておけません。心配しているんですよ」

「心配?」と、思わず僕は聞き返す。

 サーシャは普段、僕がちょっと拗ねたりふてくされたりするくらいでは心配なんかしてくれない。それどころか気を引こうとしてソファに突っ伏しても、部屋に閉じこもっても「気がすむまでそうしていらっしゃい」と、澄ました顔で突き放すのがいつものことだ。だから、サーシャが今日に限って心配などと言い出したことに僕はちょっと驚いてしまったのだ。

「そうです。小学校にはナーサリーよりたくさんの子どもがいるし、クラスメートもほとんどが初対面でしょう。例えば――」

 少しだけ間を置いてから、サーシャは続ける。

「あなたが私みたいなロボットと二人だけで暮らしていると知られたら周囲からは奇妙に思われるかもしれません。幸いナーサリーにはそんな子どもはいませんでしたが、自分と他人を比べ出す年頃ですしね。あなたがもしそんなことでからかわれて、意気消沈しているのだとすれば……」

 低くて悩ましげな声。サーシャは僕が、サーシャのせいで嫌な目にあったのではないかと疑っているのだ。

 それはあまりにとんちんかんな考えで、僕は大きな声で否定する。

「違うよ、そんなんじゃないよ。だってまだ誰にも、僕がサーシャと二人きりで暮らしてることなんて話していないし」

 人とロボットが一緒に暮らすことは今ではまったく珍しくはない。というか、家事や育児の支援ロボットというのはそもそも人間の家で一緒に暮らして仕事を手伝うために作られたものだと絵本で読んだこともある。

 僕たちの何が特別かといえば、ロボットであるサーシャと人間の子どもである僕が二人だけで暮らしていることだ。弁護士のベネットさんは、それは普通は許されないことなのだと言っていた。僕の後見人であるお祖父さんがしっかり面倒をみる、という約束で特別に許可をもらっていて、だからときどきベネットさんがお祖父さんの代わりにここでの暮らしが上手くいっているかを見にくる。

 だからかもしれないけれど――サーシャはときどき、他の人から僕たちの暮らしがどう見えているかを気にする。「普通ではない」暮らしをしている僕が、そのことで誰かに変な目で見られたり嫌われたりしないかを怖がっているのかもしれない。だってサーシャの仕事は僕を守ることだから。

 でも僕にはサーシャの心配している意味はあまりよくわからない。だって僕の周りにはいろんな子がいる。お母さんだけと暮らしている子、お父さんだけと暮らしている子、お母さんが二人いたりお父さんがいたり、おじいさんやおばあさんと一緒に住んでいたり。そういう子たちと僕たちは、一体何が違うんだろう。

「本当に?」

「本当だってば」

 まだ疑わしそうな顔をしたサーシャに、僕は大きくうなずいて見せた。サーシャの潤んだような目が少し揺れて、やがて普段どおりの冷静さを取り戻す。それで僕にはサーシャの心配が消えてなくなったことがわかった。

 でも、それで僕が解放してもらえるかといえば、そんなに甘くはない。

「だったら、何でそんな顔をしているのか教えてくれますか?」

 すっかりいつもの調子を取り戻したサーシャはがっしりと僕の両方の肩をつかんで、嘘もごまかしも絶対に許さないという強い意思を込めた声色でそう言った。そうすると僕にできることは、あきらめて何もかもを話すことだけだ。

「うん……実は僕」

 僕は嫌々ながらも小さな声で、今日学校であったことを最初から最後までサーシャに話して聞かせた。

「で、そのビビという女の子と言い合いになって、初日から先生に叱られたと?」

「うん。教室の子も僕のこと本当に悪いことしたみたいな目で見るんだ。何もしてないのに僕を乱暴な奴みたいに言って、ひどいよあのビビっていう子」

 順を追って話しているうちに教室での悔しい気持ちや恥ずかしい気持ちがまた戻ってきたみたいで、だんだん僕の胸のあたりは熱くなってくる。サーシャもきっと僕の気持ちをわかってくれるに違いない、そんな風に思ってビビがどれだけ嫌な女の子かを一生懸命話して聞かせた。

 でも、僕の話を一通り聴き終えたサーシャは小さなため息をついて、言った。

「謝りなさい」

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