第7話

 僕の見るビビはいつだって元気いっぱいで、他の友達よりもずっと強くて自信たっぷりでいるように見えた。だから僕の頭の中で「ビビ」と「病気」という言葉はこれっぽっちも繋がらない。だってビビが風邪を引いたところだって、僕は一度も見たことないのだから。

「ビビが、病気?」

 頭に浮かんだのは僕のお母さんのこと。大丈夫よ、すぐ治るから――そんなことを言っておきながら、僕の前からいなくなってしまったお母さんと同じように、せっかくできた友達のビビも重い病気にかかっているのだろうか。

 体の中から力が抜けてしまって、僕は自分が風船で、そこにビビのお父さんが針で穴をあけてしまったような気持ちになった。しゅうっと空気が抜けて今にも床にへたりこんでしまいそうな。けれど、ビビのお父さんは泣きそうな顔の僕に手を差し伸べて笑う。

「大丈夫、アキヒコくん。病気はもう治ったんだよ。今のビビは完全に健康な女の子だ。だからこれからも、娘のいいお友達でいて欲しい」

 その手は大きくて温かい。「お母さん」とも「サーシャ」とも違う力強い手で頭を撫でられると気持ちがいくらか落ち着いた。

「……うん」

 わかった、と僕がなんとか笑顔で返そうとしたところにビビの足音が近づいてくる。

「アキ、見てこれ。パンダ!」

 振り向くと、本物そっくりの、でもちょうど手のひらくらいの大きさのパンダを手にしたビビが自慢げな顔をしている。その肩の下あたりで揺れるのはストロベリーブロンドのお下げ。僕のママの髪と同じ色をしたお下げ髪。

「すごい、本物そっくりだね」

 僕は完全には消し去ることができない恐怖心を抑えて、ビビに向かってできるだけ明るい声を出した。

 それから僕たちは人形遊びをして、ビビのお母さんの淹れた紅茶を飲んで、サーシャが持たせてくれたアップルパイを食べた。サーシャのアップルパイはいつも通り表面はつやつやと金色に輝いていて、あの皮肉屋のビビだって二切れもお代わりをしたくらいだ。なのにどうしてだろう。僕の口の中ではサクサクのパイ生地もとろとろのりんごも、全然味がしなかった。

「どうしたんですか、アキ」

 約束通りの時間に僕を迎えにきたサーシャは、ビビの家のドアが閉まった途端に黙り込んでしまった僕を見て首を傾げた。僕はサーシャの質問にどう答えて良いのかわからない。

 だって僕にも他の友達にもビビは一度だって病気の話なんかしたことがない。だからきっとビビは、そのことを誰にも知られたくないんだと思った。いくらビビのお父さんから話を聞いてしまったからって、勝手にそのことをサーシャに教えてしまうのはきっと約束違反になってしまう。

「何でもないよ。ただちょっと……疲れちゃったんだ」

 心細くなって僕はサーシャの冷たい手をぎゅっと握る。離れていたのはほんの数時間なのに、すごく長い間だったような気がした。

 しばらく黙ったままでいたサーシャは、バスの座席に並んで座ってからようやく口を開く。

「そうですね。私ももう少し注意した方が良かったのかもしれません。あなたは人見知りだし……それにああいう家に遊びに行くのは」

「ああいう家って?」

 聞き返すと、「ああ」と小さなため息を吐いたサーシャはいいよどむ。まるで自分が失言してしまったことに気づいたみたいに。そして少し間を空けてから言った。

「もう、あなたはビビの家には行かない方が良いかもしれません」

 僕にはサーシャの言葉の意味がわからなかった。ただ、次に僕がビビに遊びに誘われたとき、きっとサーシャはいい顔をしないだろうと思った。それは少し悲しいようで、でも少しだけほっとした。どうしてそんな気持ちになるのかは自分でもよくわからない。

「それはアキヒコ様が、悲しい気持ちになられたと思っているのでは?」

 そう指摘したのはベネットさんだ。

「悲しい気持ち?」

 ビビの家に遊びに行った翌日は日曜日。僕は毎週の約束で、郊外にあるおじいさんの家を訪問していた。そして、前日の気持ちを引きずって浮かない顔をしていることに気づかれてしまい、ついおじいさんとベネットさん相手に心の中のモヤモヤを話してしまった。

「だって、そのビビという女の子の家は――ずいぶん、違うでしょうから」

 ベネットさんは、サーシャが僕に「もうビビの家には行かない方がいい」と行った理由に心当たりがあるようだった。でも、はっきりと理由を教えてくれないものだから僕はイライラしてしまう。

「意味がわかんない。子どもにもわかるように話して」

「いえ、あの。つまり――」

 僕が拗ねるとベネットさんはモゴモゴと口ごもる。サーシャもベネットさんも皆して言いたいことをぼやかしてばかりだ。僕が子どもだから馬鹿にしているのか知らないけど、すごく嫌な気持ちだった。

「ベネット、濁すくらいなら最初から言うな」

 低い声で割って入ったのは、肘掛椅子に座って僕たちの話に耳を傾けていたおじいさんだった。

「アキヒコ、おまえはその子の家に行って、両親が揃って仲良く暮らしているのを見て悲しくなったり傷ついたりしたのか」

「え?」

 それは意外な指摘だった。でも、気まずそうな様子のベネットさんもおじいさんの言葉に小さく首を縦に振る。

「もしかしたらサーシャはそのことを気にしているのかもしれない。私やベネットだって、おまえが自分の家庭を他と比べて悲しい思いをしないかどうかは、いつだって気にしている」

 そういうことか。僕はようやく合点がいった。

 僕には最初からお父さんがいないし、お母さんも死んでしまった。僕の周りにはお父さんかお母さんのどちらかしかいなかったり、おじいさんおばあさんと暮らしていたり、中にはお父さんが二人いるような子もいる。でも、ロボットと二人きりで暮らしている友達は誰ひとりいないから、そういえば小学校に入った最初のうちは、サーシャは僕が自分の家のことで虐められたり嫌な思いをしないかをすごく気にしていた。

「そういうのは、別に、あんまり」

 確かにお母さんがいなくなってしまったことは今も悲しい。でも最近では、サーシャがいて、日曜日にはこうしておじいさんと会うことができる生活にすっかり慣れてしまって、ほとんど寂しさを感じることはない。だから、ビビがお父さんとお母さんに大切にされているところを見てもちっとも辛い気持ちにはならなかった。

「だったらどうして悲しい顔をしたんだ? 本当に疲れただけだったのか?」

 少し迷って僕はおじいさんには本当のことを話すことにした。

 おじいさんはサーシャほど心配性じゃないしすぐに怒ったりしないから、こうしてときどき秘密の話を聞いてもらう。

「あのさ」

 僕の一番の友達であるビビがお母さんと同じ髪の色をしていること。顔や性格はあんまり似ていないけど、そのビビが大きな病気をしたことがあると聞いて、お母さんが死んでしまったときのことを思い出して怖くなったこと。

「ビビのお父さんはもう治ったから大丈夫だっていうんだけど、お母さんも病院ではいつも大丈夫だって言ってたし。ビビのお父さんも大人だから『優しい嘘』をつくかもしれないでしょう」

「つまりアキヒコ、おまえはそのビビという友達も、エマのように具合を悪くするのではないかと怖くなったんだな」

「うん。そんな感じ」

 髪の色が一緒だから病気も同じだというわけじゃない。そんなことわかってる。でも、どうしても不安な気持ちが消えてくれない。僕はそのことをおじいさんに一生懸命訴えた。

「でも、ビビは今は元気で、学校にも毎日通っているんだろう?」

 僕の話を黙って最後まで聞いてから、おじいさんはそう尋ねた。

「うん。運動もするし、駆けっこはクラスで一番早いよ」

 するとおじいさんは手を伸ばして僕の髪を撫でた。お母さんともサーシャとも、もちろんビビのお父さんとも違うやり方で。そして、付け加えた。

「だったらビビのお父さんの言うことを信じていいんじゃないのか。おまえの母親だって、自分では最後まで大丈夫だと信じていた。大人がいつでも嘘をつくわけではない」

 そういえば去年、雨樋から落ちた僕を受け止めたサーシャは「大丈夫」と強がって、ロボットのお医者さんに行くことを拒んだ。お母さんみたいに死んでしまったらどうしようと心配したけれど、腕の傷跡は残ったものの実際サーシャは大丈夫だった。

 病気や怪我をしたからって、誰でもすぐに死んでしまうわけじゃない。ビビみたいに元気な子はとりわけ。僕はおじいさんの言葉にほっと安心した。