第10話

 僕が泣きながら頼み続けるとサーシャはやっと電話をかけた。それからお医者さんは嫌だといったきり気を失ってしまったビビを抱きかかえてリビングへ連れていき、ソファに寝かせてブランケットをかけるとため息をついた。

 サーシャは何も言わずに難しい顔をしている。こんなに具合の悪そうなビビを見てもまだサーシャは怒っているのかと思うと、僕は何も言えなかった。

 すぐに救急車が来てくれると信じて窓とソファをずっと行ったり来たりしていたけれど、なかなかサイレンの音は聞こえてこない。ずいぶん待ってやっと誰かがドアを叩いたと思ったら、それは救急車の人ではなくビビのお父さんだった。

 サーシャがリビングまで案内すると、お父さんは目を閉じたままのビビの髪を優しく撫でてからそっと抱き上げる。お医者さんを呼ぶのではなくこのまま家に連れて帰るつもりなのだろうか。心配になって思わず聞いてみる。

「おじさん、ビビは大丈夫なの? この前言ってた病気……」

 ビビのお父さんは僕の方を見た。

「うん、その病気とは違うから大丈夫だよ。ありがとうアキくん」

 ビビのお父さんは部屋を出ていこうとするけれど両手がふさがっている。僕がそれに気づくより一瞬早くサーシャが手を伸ばしてドアを開いた。

「大変ご迷惑をおかけしました。……まず私に連絡してくださって、助かりました」

 お礼の言葉にもサーシャは顔色ひとつ変えなかった。

「当然のことです。娘さんの持病のことなら、ご家族が一番よくご存じでしょうから」

 サーシャの言葉に気まずそうに笑うと、小さな女の子の体を宝物みたいに大切そうに抱きかかえてビビのお父さんは僕たちの家から出て行った。

 部屋の中は急にしんと静まりかえる。僕とサーシャ二人だけなのはいつものことなのに、いつもよりずっとずっと静かで寂しい気がした。

 さっきまでビビが横たわっていたソファに目をやると、ビビの髪の毛が一本だけカバーにの上に落ちていた。僕はピンク色の糸くずみたいなそれを拾い上げて、じっと見つめる。そのうちに不安な気持ちがどんどん大きくなってきて、立ち上がるとキッチンにいるサーシャに駆け寄って後ろから抱き着いた。

「サーシャ、ビビは大丈夫だよね。お母さんみたいに死んじゃったりしないよね……」

「大丈夫、あの子は死んだりしませんよ」

 サーシャは振り向かないまま言った。その声はもう怒ってはいなかった。

 一週間学校を休んだ後でビビは戻ってきた。他の子にお休みの理由を聞かれると、ひどい風邪を引いて寝込んでいたのだと答える。もちろん僕はそんなこと信じないけれど、あのときのビビが風邪なんかじゃなくてもっと悪い病気に見えたことは他の子には黙っていた。ビビがわざわざ風邪と言ったのは、皆にはそういう風に思っていて欲しいんだろう。

 休み時間に僕はそっとビビのところに行って手を取ると、他の子のいない教室の隅まで連れて行った。

「ビビ、僕すごく心配したんだよ。急に倒れちゃって」

 並んで座って、あのときどれだけ驚いて怖かったかを伝えようとする。

「ああ、そうだったかしら。ごめんね」

 はビビそう言って笑った。まるであの時のことをほとんど何も覚えてないみたいだった。この一週間、僕はずっとビビが苦しい思いをしているかもしれないと心配でたまらなかったのに、当のビビがあっけらかんとしているなんてちょっと気味が悪い。

「病気、もう大丈夫なの? ちゃんと病院には行った?」

 しつこく問い詰めると、とうとうビビは鬱陶しそうに僕をにらみつけた。

「まったく、アキは心配しすぎよ。お家で寝てたらちゃんと良くなったってば。あたしはあんたのママみたいに死んだりしないわ」

 普段の僕なら、せっかく心配してあげたのににらまれたら腹を立ててしまうところだ。でも、今日は違った。いつも通り憎まれ口を叩くということは、ビビは本当に良くなったんだと思って、怒られているのに嬉しくなった。

「良かった」

 安心したら気が抜けて、僕の目からはぽろっと涙がこぼれる。怖い顔をしていたビビはぎょっと目を丸くして、それから笑った。

「まったく、アキったら男の子なのにあたしより泣き虫なんだから」

「だって……」

 だって、心配したんだ。ビビが死んでしまうんじゃないか。ビビがいなくなってしまうんじゃないか。すごく怖かった。こんな気持ちきっと、置いていかれたことのないビビにはわからない。

 涙を止めようと奮闘している姿を面白そうに眺めていたビビは、急に僕の肩をつかんだ。

「ねえ、アキ。あたし大人になったらアキのお嫁さんになってあげてもいいよ」

「え?」

 あまりに突飛な話に、びっくりして涙が止まってしまう。

 お嫁さんという言葉の意味は知っている。すごく大好きで一緒にいたい人と結婚することにして、相手が女の人だった場合にそう呼ぶのだと聞いたことがある。でも、女の人誰しもがお嫁さんになるわけではなくて、僕のお母さんみたいにお嫁さんにならないままで子どもを産む人だっている。

「だって、この間も助けてくれた命の恩人だし」

 ビビはそう続けるけれど、僕は困ってしまった。だって誰をお嫁さんにするのかというのは大人になってからの話で、僕やビビが大人になるというのはすごくすごく先のことだから。これからもずっと僕たちがこのまま仲良しで、大人になったときに結婚したいと思うかはよくわからない。

「うーん、そんな先のことはわかんないよ」

 困った顔で答えを濁すと、ビビはぷいと拗ねてしまった。

「何よ、せっかくお嫁さんになってあげるって言ってるのに。アキの意地悪」

 意地悪をしているつもりはないけど、ビビが本当に悲しそうな顔をしたから僕はますますうろたえた。そして、一生懸命考えてから答えた。

「……じゃあ……サーシャと仲良くしてくれるなら、いいよ」

 僕はビビが好きで、サーシャのことも好きだから。もし二人が仲良くしてくれて、皆で一緒にいられるんだったらそれでもいいかなと思ったのだ。

 サーシャと一緒なんて嫌、と怒られたらどうしようかと思ったけれど、ビビは今まで見たことないようなはにかんだ顔で笑った。

「ありがと」

 ビビの小さな手のひらが僕の手をぎゅっと握りしめてくる。

 僕の一番の友達。ストロベリーブロンドのおさげを揺らす、生意気だけどかわいくて優しい女の子――。その笑顔があまりに可愛かったから急に恥ずかしくなって、目を伏せた僕はそれ以上もう何も言えなかった。

 そして、ビビは学校からも、僕の前からもいなくなった。

 次の日、授業が始まる時間になってもビビはやってこなかった。朝礼にやってきた先生は皆に向けて「残念だけど、ビビはお父さんのお仕事の関係で急にお引越しすることになったの」と言った。

「嘘だ、そんなの聞いてないもん!」

 思わず立ち上がった僕に、困ったような顔で先生は諭す。

「そうね、アキくんはビビと仲が良かったから寂しいでしょうけど。でも本当のことなのよ」

 そんなの嘘だ。昨日のビビは元気そうで、将来は僕のお嫁さんになるんだって言って笑った。なのにすぐにいなくなっちゃうなんて、そんなことあるはずがない。

 ビビは戻ってくる。絶対に。そう思ったけれど。次の日には教室からビビの机も椅子もなくなっていた。それどころか一週間もすれば、そんな女の子最初からいなかったみたいに誰もビビの話をしなくなった。