第11話

「ねえサーシャ、ビビの家に連れて行って」

 どうしても納得がいかない僕は思い切ってサーシャにお願いしてみることにしたけれど、案の定サーシャは冷淡だ。

「……そんなの意味ないでしょう。引っ越したんですから家に行ったところで誰もいませんよ」

 無表情に僕を見下ろし、たったの一言で僕の頼みを却下してしまう。それだけで終わりにしたくないから、一生懸命サーシャを説得する方法を考えた。

「でも、皆が嘘をついてるのかもしれないし」

 するとサーシャはゆっくりとしゃがみこみ、僕と目の位置を合わせる。サーシャの目の真ん中にある色の濃いところが、まるで人間みたいにゆらゆらと揺らめいてとてもきれいだった。

「アキが、仲良しのビビがいなくなって悲しんでいる気持ちは理解します。でも、義務教育の子どもが学校を離れるというのは、あなたが考えているようないい加減なものではないんです。ちゃんとした手続きがなされた上でビビは転校して行ったんですから、嘘なんてことはあり得ないんですよ」

 さっきよりちょっとだけ優しい口調でも、話の結論は変わらない。サーシャはどうしても僕をビビの家には連れて行きたくないみたいだった。

「でも」

 もしもサーシャが言っていることが本当なのだとしても、僕は自分の目で見るまではビビがいなくなってしまったということを信じることができない。しつこく訴えてはみたけれど、いくらお願いしても喚いても、このときばかりはサーシャは絶対に首を縦には振らなかった。

 サーシャはビビのことが嫌いだから、もしかしたらいなくなって嬉しいと思っているのかもしれない。ビビは、将来僕のお嫁さんになったらサーシャと仲良くしてくれると言ったのに。サーシャはときどき、とても意地悪だ。その意地悪の理由がわからないから僕はずっとお腹の中に石が詰まっているみたいに気持ちの悪い気分だった。

 自分ひとりでビビの家に行こう――そう決めたのは次の週のこと。

 サーシャがどうしても連れて行ってくれないというのなら、自分ひとりで行けばいい。僕がビビの家に行ったのはたったの一回だけど、どの番号のバスに乗れば良いかは知っているし、川を渡って少し行ったところにあるクリーニング屋さんの次のバス停で降りるのだということも覚えていた。

 問題は僕がひとりになる時間がほとんどないことで、学校には毎日サーシャが送り迎えするし、土曜日だって勝手に外出すればすぐにばれてしまう。だから僕は日曜日の夕方に狙いを定めた。

 おじいさんの家から帰るとき、僕はいつもアパートメントの前で送迎の車を降りる。ベネットさんに手を振ってから階段を上って家に帰るのが毎週の決まりだった。そして、そのときだけはサーシャも外までは迎えに出てこない。つまり、僕がひとりになるチャンスがあるということだ。

 次の日曜日、僕はいつもと同じようにおじいさんの家へ行って、夕方車で送ってもらった。ただひとつだけいつもと違ったのは、アパートメントの集合玄関に身を隠して送迎の車がいなくなるのを待ってから、再びそっと扉の外に出たということだけ。

 外はもう薄暗くて、こんな時間に自分だけで出歩いたことなんてない。僕みたいな子どもがひとりで歩いていて警察につかまったりしないだろうか。バスにはちゃんと乗せてもらえるだろうか。どきどきしながら歩くいつもの道は、まるで知らない場所みたいに思えた。

「僕、ひとりかい?」

 バスの運転手さんからそう聞かれたときはちょっと怖かったけど、おじいさんのうちから帰る途中だと言ったらそれ以上何も言われなかった。

 本当にこのバスで正しいのか心配で、一番前の席に座って何度も行き先の電光掲示を確かめた。窓の外にビビの家に行ったときと同じ景色が流れていくことに少し安心して、見覚えのあるクリーニング店を過ぎたところで僕は停車ボタンを押した。

 バス停から数ブロック歩いたところに、前と変わらずビビの家はあった。ただ、すっかり日の落ちた外と同じように、カーテンのなくなった窓の内側も真っ暗だった。家の前に停まっていたはずのビビのお父さんの車もない。玄関わきにあった花の咲いた植木鉢も、ビビの自転車も、何もかもが消えていた。

「ビビ……」

 名前を呼んでももちろん返事なんてない。

 教室から机がなくなり誰もビビの話をしなくなったみたいに、この家からもビビのすべてがなくなって、そんな人最初からいなかったんだと言っているように見えた。

 ビビはいなくなった――信じたくなかったけれど、抜け殻になった家を見ているうちに、それは本当のことなんだとわかってきた。すごく悲しくて、でもそれはお母さんがいなくなったときとは違う悲しさで、心の中にぽっかり穴が開いたみたいな気持ちで僕はずっとそこに立って真っ暗な家を見つめていた。

「坊や、こんなところでどうしたの? もう暗いから帰りなさい」

 声を掛けられて振り向くと、犬のリードを引いたおばさんが心配そうに僕の方を見ていた。このあたりに住んでいる人なのかもしれない。

「おばさん……ビビは……ここにいた女の子を知ってる?」

 誰でもいいからビビのことを覚えている人と話をしたい。ビビが本当にここにいたのだと確認したい。もしもどこに行ったか知っているならば手掛かりを教えて欲しい。そんな気持ちでいっぱいだった。

 でも、僕の質問におばさんは顔色を変えた。

「女の子? 違うわ、ロボットでしょ?」

「……ロボット?」

 言われたことの意味がわからず聞き返すと、おばさんはまるで蛇やむかでの話をするときのように顔をしかめた。

「ええ、坊や。人間そっくりだったけど、あの子ロボットだったんですって。あたしや他の人たちも気づいていなかったから驚いたんだけどね」

「ビビが……ロボット……」

 僕にはおばさんが悪い冗談を言っているようにしか聞こえなかった。あのビビが、僕の仲良しのビビが、実はロボットだったなんて。

「病気で亡くなったお嬢さんそっくりの身代わりロボットを作って、本物の振りをして住民登録して学校にも通わせていたみたいなのよ。あら、もしかしてあなた同じ学校の子?」

 質問に答えずに僕はただ首を振った。

「嘘だ。だって……ビビは、ビビは普通の女の子だった」

 あんなロボットいるはずない。誰よりおてんばで、誰より足が速くて、わがまま言って僕を困らせて――。

「嘘じゃないわよ。でも、お友達だったあなたも信じてしまうくらい人間そっくりだったのね。ちょっと怖いわ」

 おばさんの話はもう僕の頭には入ってこない。

 ビビが本当はロボットだった。そんなの信じられない。でも、だったらどうしてビビは僕に「ロボットのにおいがする」なんて言ったんだろう。どうしてあんなにサーシャに興味を持って、会いたがったんだろう。どうして僕の前で急に動かなくなって倒れてしまったんだろう。そして――どうして握りしめたビビの手は冷たかったんだろう。まるでサーシャの手を握ったときみたいに。

 そこではっと大切なことを思い出した僕はおばさんに噛みつくように訊く。

「ねえ、おばさん。ビビはどこにいるの? どこに行ったの?」

 ビビがロボットだとしたら、今どこでどうしているんだろう。本当はロボットなのに人間だって嘘を付いていたことがばれたから、別の場所にいってしまったんだろうか。

 あまりに僕が熱心な聞き方をするから、おかしな子どもだと思われたのかもしれない。

人型機械ヒューマノイド管理局が連れて行ったわ。違法に制作されたロボットは処分されて、作った人は逮捕されるの。そういう決まりなのよ。さあ、あなたももうお帰りなさい。親御さんが心配しているわ」

 そういっておばさんは犬と一緒に歩いて行って、隣の家の玄関に消えた。

 違法。処分。逮捕。どれも難しい言葉だけれど、不思議とその意味は理解できた。それはつまり、ビビはもういなくて、決して戻ってくることもないのだということ。目の前がすうっと暗くなって、脚の力が抜けそうになった僕の背中を、大きな手が支えた。

「アキ!」

 駆け寄ってきたサーシャは慌てたように僕を抱き起こす。

「サーシャ、なんで僕がここにいるって」

 何も言わずにひとりでここまで来たはずなのに、なぜここにサーシャがいるのだろう。驚きで一瞬だけ悲しい気持ちが小さくなった。

「あなたが帰ってこないからベネット氏に連絡をしたら家の前で降ろしたと。私に黙って出かけるとすればここしかないでしょう。アキの浅はかな考えくらい想像がつきます」

 ちょうど数メートル離れたところを黒いタクシーが走り出すところだった。サーシャは僕を探してここまでタクシーに乗ってやってきたのだ。いつも外に出るときにはきちんと身なりを整えているのに、サーシャの黒い髪は少し乱れて、夕ご飯の準備の途中だったのかエプロンも付けたままだ。

 勝手なことをした自覚はある。お説教が始まるのを覚悟して僕は体をぎゅっとすくめたけれど、不思議とサーシャは黙って僕を見つめたままでいる。

「……怒らないの? 勝手にひとりで出かけたこと」

 いつ落ちてくるかわからない雷にびくびくしながらサーシャを上目で伺うと、見下ろしてくる視線がふっと色を変える。

「怒っています。でも、叱る必要はありません」

 それから落ちてくるのは小さなため息。

「あなたは私に叱られるよりも残酷な罰を受けました。それで十分です」

 サーシャはゆっくりと手を伸ばし、僕の髪に触れた。ひんやりと冷たい手。その感触になんだかほっとして、僕はまだ自分が謝っていなかったことに気付いた。

「ごめんなさい……ひとりで遠くに来たりして」