学校から帰って、手を洗ってダイニングのテーブルに座る。今日のおやつはベイクウェル・タルトとカフェオレだ。
ずっと前、僕がまだ小さな子どもだったときはサーシャのコーヒーをいくらうらやましがっても飲ませてはもらえなかった。だめだと言われれば言われるほどあこがれが強くなったから、小学校に入って間もなくサーシャが「約束ですから」と言って僕のカップにコーヒーを注いでくれたときはすごく嬉しかった。
僕が飲ませてもらえるのはカップにたっぷり注いだホットミルクにほんのちょっとだけコーヒーを垂らしただけのカフェオレだけど、それでも麦芽ミルクよりはずっと大人っぽい飲み物だと思う。
「ねえ、サーシャ、これ一年生のコーヒーだよ。ほとんどミルクの味しかしないもん」
僕はテーブルに向かい合わせに座ったサーシャにカップを差し出す。二年生になったらコーヒーの量を増やしてもらう約束だったけど、気を抜くとサーシャは僕をだまして一年生のときと同じ濃さのカフェオレを作ってしまうのだ。
「いいえ、あなたの気のせいです」
いつもどおりの澄ました顔でカップを押し戻してくるけど、その手には乗らない。だって僕はもう八歳。サーシャの嘘なんてお見通しだ。
「嘘! だって二年生の量はこぽこぽって二秒くらいコーヒー入れるんだよ。さっきサーシャ、一秒しか入れなかったから、これは一年生のコーヒーだ」
「……時間は短かったかもしれませんが、その分ポットから勢いよく出たんですよ。量は変わりません」
「そんなことない!」
だって僕はコーヒーを注ぐところをじっと見ていたから。そう訴えるとサーシャは呆れたみたいにため息をついた。
「アキ、言ったでしょう? コーヒーをたくさん飲むと夜眠れなくなるんですよ。あなた、私が眠ってしまった後もひとり寝付けなかったらどうするんですか? 部屋は暗いし、おばけが出ても誰も助けてくれませんよ」
おばけ、という言葉に僕はぎくっとする。
そういえばサーシャは前にも同じことを言っていた。子どもにカフェインは良くないから、カフェオレは一日に一度だけ。二年生の濃さで作るのは朝だけ――それを僕はすっかり忘れていたのだ。今日は朝ごはんの飲み物が紅茶だったからおやつがカフェオレ。でも、午後だからコーヒーは少なめというのがサーシャの言い分だ。
「で、でも大丈夫だよ。眠れなかったらサーシャを起こすから」
「わたしの睡眠はタイマーで調整されているので、起こそうとしたって無駄です。あなたは真っ暗闇でおばけとふたりきりで過ごすんです」
「う、それは……」
そんなの絶対に嘘だ。だってサーシャは僕に危ないことがあったら、朝でも夜でも関係なしに助けてくれるに決まってる。だって僕と一緒にいて、いつも僕を見て守るのがサーシャのお仕事で、それは死んでしまったお母さんとの「契約」なんだから。
と、頭ではわかっているのに「おばけ」と言われるとどうしても心配になってしまう。もしもサーシャが急に故障してしまったら――前に一度僕をかばって腕を怪我したときみたいに深く眠ってしまったなら――おばけに襲われる僕を助けることができない可能性もある。
「……じゃあ、明日の朝は絶対に二年生のカフェオレだよ」
とりあえず今日のところはコーヒーを増やしてもらうことをあきらめた僕は、マグカップを持ち上げて口をつけた。本当はこっちの味も嫌いじゃない。というか、こっちの方が美味しいと思っているんだけど、それはサーシャには絶対に秘密だ。
「第一、そのケーキには紅茶の方が合うんです」
「いいの、僕はコーヒーが飲みたいんだから!」
そう言ってカフェオレをもう一口飲むと、握ったフォークをお皿の上のケーキに突き刺す。アーモンドのいい匂いがするタルトの中に甘酸っぱいラズベリーのジャム。お母さんの作るのと完璧に同じ味――って、本当は、お母さんのケーキの味はもうあんまり思い出せないんだけど。
前はよく、お母さんのことを思い出して寂しくなった。でも最近ではお母さんのことをちゃんと思い出せなくて寂しくなることがたまにある。お母さんだけでなく仲の良い友達とお別れすることを通じて僕は、もう二度と会えないということの意味を少しずつ理解できるようになってきた。
ケーキはすごく美味しいのにお母さんのことを考えたら胸がいっぱいになってしまい、最後の一切れは無理やりカフェオレで飲み込んだ。
ごちそうさま、と言おうとしたときだった。おやつを食べる僕をじっと眺めていたサーシャが壁のカレンダーを指でさした。
「そういえばアキ、来月頭の一週間はサー・ラザフォードのお宅から学校に通ってください」
「……え?」
つられて僕もカレンダーを見る。チェス板に数字を書いたようなそれの読み方はもう知っている。もちろん来月頭の一週間、というのがさ来週で、つまりすごく近くに迫っているということも。
「ふうん、来月の、最初の……え?」
今サーシャは何て言った? 来月頭の一週間、サー・ラザフォードつまり僕のおじいさんの家から学校に通えって?
あまりにびっくりしたから、まだ手に持っていたフォークがお皿の上に落ちてカチャンと音を立てる。僕が食器を鳴らすといつもガミガミ叱ってくるサーシャの目が険しくなるけど、そんなこと今はどうだっていい。
「ねえ、それどういうこと!? おじいさんの家から学校って……」
僕はテーブルの上に身を乗り出した。
今までナーサリーのお泊まり会のとき以外一度だってこの家以外で眠ったことはない。郊外のお屋敷に住むおじいさんのところは今も変わらず毎週日曜日と、それ以外にもクリスマスとかイースターとか、特別なお祝いの日にも訪ねることにしている。でも夜にはこのアパートメントに送り届けてもらうと決めているし、おじいさんが約束を破ったことはない。
だってここはお母さんと僕が暮らしていた大事な家だし――サーシャだって僕がおじいさんと暮らすのは嫌だって言ったし――。頭がぐるぐるしてうまく続きを言葉にできない僕に、サーシャは言う。
「一週間、あなたはサー・ラザフォードのお家に泊まるんですよ」
「嫌だよ! どうして!」
僕が大きな声をあげると、サーシャはまたため息をつく。
「一週間くらい大丈夫です。サー・ラザフォードはあなたのおじいさんです。毎週お邪魔してあちらのおうちにも慣れているでしょう。お母さまと暮らしたこの家以外では眠ることができないなんて赤ん坊みたいなこと、もう小学生なんだから――」
「一週間くらいってどういうことだよ!」
普段の僕なら赤ん坊扱いされたらすぐにむきになって、自分がもう小学生のお兄さんだというところを見せようと意地を張ってしまう。でも、さすがにこれは強がる限界をこえている。片手の指の数眠っても、まだ足りない。そんなに長い間この家を離れてその間、サーシャは?
「サーシャも一緒に行くならいいけど」
「行くはずないでしょう。ラザフォード邸にはあなたの本当の保護者がいるんですから、私の出る幕なんてありませんよ」
聞かなくたって答えはわかっていた。だって一緒に暮らすようになってから三年、一度もサーシャはおじいさんの家にはついてこなかったから。
「だったらどうして? 僕の家はここなのに、どうしておじいさんの家にいかなきゃいけないんだよ」
最初、おじいさんと一緒に暮らすと言って出て行こうとする僕を止めたのはサーシャだったのに、なぜ今になっておじいさんのところに泊まれなんて言うんだろう。
もしかしてコーヒーのことでわがままを言ったからだろうか。授業中におしゃべりして叱られたことを先生から聞いたのだろうか。いろんな不安が頭の中をぐるぐる回った。いつの間にか「一週間」というのも忘れて、サーシャが僕をおじいさんのところに追いやろうとしているんじゃないかと怖くてしかたなくなる。
「落ち着いて、アキ。あなたの家はここですし、一週間というのは――」
「だったら僕はサーシャと一緒がいい!」
鼻の奥がつんとして、目に映るサーシャの姿がいびつに歪む。そして水の中みたいにゆらゆら揺れる呆れたようなサーシャの顔が困ったように、それから優しい笑顔に変わった。僕の頭に冷たい手が触れて、髪を撫でる。そしてサーシャは言った。
「私がここに来て今年で三年目です。家庭用育児支援ロボットは三年に一度、一週間の法定点検が義務付けられているんです」