「……で、アキヒコはサーシャが一週間家を空けることに納得がいかずに、まだ拗ねているというのか」
おじいさんの家のリビングのソファで僕は丸くなって頭までブランケットをかぶっている。ブランケットは家のベッドから持ってきたもので、もちろん枕もいつも使っているものを運んでもらった。それ以外にも学校の道具と、お気に入りのぬいぐるみと、マグカップと、あとは――キッチンからこっそり持ち出したサーシャのエプロンもかばんの奥に潜ませてある。
サーシャが〈法定点検〉に行かなければいかないと聞いてから、僕は予防接種や歯医者さんに行く前みたいに毎日、何か事件が起きて予定がなくなってしまえばいいのにと神さまにお願いしていた。例えばメンテナンスの人が病気になってしまうとか、メンテナンスの建物が火事になってしまうとか。もちろんそんなことを言葉にしたら叱られるに決まっているから心の中で思うだけなんだけど。
でも今日――日曜の夕方になっても僕の願いは叶わなかった。サーシャは僕の荷造りをして、家中をぴかぴかに磨き上げてから自分もお出かけのときの上着を羽織った。それからベネットさんと運転手さんが僕を迎えにやって来た。僕を見送った後で、メンテナンスというロボットの病院の人がサーシャを迎えにくるのだと言っていた。
「では、サー・ラザフォードや他の方にご迷惑をかけることなく、いい子で過ごすんですよ」
サーシャは全然寂しそうじゃなくて、僕を送った学校の玄関で毎朝手を振るのと同じくらいあっさりと手を振った。僕はこんなに悲しいのにサーシャは平気なんだと思うと胸がぎゅっとして、ちょっとだけ泣きたくなる。
本当は嫌だって言いたかった。メンテナンスなんてやめにして、一緒にお家にいて欲しい。それをぐっとがまんしたのは、最初に〈法定点検〉の話をしたときのサーシャの言葉を覚えているからだ。
「これは法律で決められたとても大切な検査なんです。この検査を受けなければ私は『違法のロボット』になって、人型機械管理局から回収されてしまいますよ」
そう言われたとき、僕はいなくなってしまったビビのことを思い出してぞっとした。違法のロボットは回収されて、壊されてしまう。二度と会えなくなってしまう。それを知っているからサーシャと一週間離ればなれで過ごすことはがまんしなければいけないのだと唇をぎゅっと噛んで車に乗り込んだ。
僕が眠っていると思っているのか、ベネットさんとおじいさんは話を続ける。
「どうも昨年仲の良い友人を亡くして以来、ときおり不安定になることがあるようで。赤ちゃん返りというか……サーシャも多少気にしているようではあります」
「そうか」
「これまでのところ目立った発育上の問題もないのであのような暮らし方を認めていましたが、二人きりの生活を続けるうちに依存が強くなりすぎているのかもしれません。果たしてこれがアキヒコ様にとって良いことなのか……」
ブランケットの下で僕はぎくりとした。
内容ははっきりとわからなくても、ベネットさんが低い声でひそひそとしゃべっているときは良くない話なのだと知っている。それに、最初のときみたいにけんかはしないけれど、ベネットさんはいまでもサーシャのことを完全には信用していないのだ。ベネットさんがもしも僕とサーシャの暮らしを「良くない」と決めたら、きっとおじいさんと「裁判所」にそのことを告げ口するだろう。
ロボットと子どもが二人きりで暮らすのは本当は禁止されていて、おじいさんとベネットさんが「裁判所」にお願いをしているから、いまは特別に許してもらっている。だから――その特別の許可を取り消されないようにがんばらないといけない。
おじいさんとベネットさんは、そこで話をやめてしまったから、僕は落ち着かない気持ちでしばらく眠ったふりを続けていた。そのあとで起き上がって、精一杯の元気な声を出した。
「僕、本当は今日おじいさんのところに来るのをすごく楽しみにしていたんだ」
それはもちろん嘘だけど、ベネットさんとおじいさんを心配させないために僕はこの一週間を元気なままで乗り切らないといけない。
「……楽しみに?」
定位置の肘掛け椅子に座ったおじいさんは、片方の眉毛を少し上げて聞き返す。きっと僕が嘘をついているのではないかと疑っている。だから僕は笑ってうなずいた。
「うん。だって僕はもう八歳だからお泊まりも平気だし……ここだったらいくらでも自転車にも乗れるから」
六歳の誕生日に買ってもらった緑の自転車はいまでは自由自在に乗りこなすことができる。それでも「街中では危ないからだめです」という心配性のサーシャのせいで、アパートメントに持ち帰ることは許されていない。だから、僕が週末にここに来る楽しみのひとつが自転車に乗ることだった。
おじいさんの家の庭は学校の運動場と同じくらい広いから存分に走り回ることができる。それに、家の近所は車の通りが少ないから、一番近くにある雑貨店に行くときだけ、料理番のマーサは僕が自転車に乗ってついていくことを許してくれるのだ。
「自転車が、そんなに楽しみか」
まだおじいさんが完全に信用していないみたいだから、僕は膝の上に乗り上げるようにして続ける。
「それに、マーサが! マーサがケーキを作ってくれるって言ってたし、パンを焼くのを手伝ってもいいって!」
「ほう、マーサの手伝い」
「うん、僕パンの手伝いはやったことないから、すごく楽しみなんだ!」
お料理もケーキ作りも上手なサーシャだけど、パンだけは家では焼かずにお店で買ってくる。どうしてパンは焼かないの? と聞いたら、「パンは家庭用のオーブンで焼いても美味しくはないんです。お店には敵いませんよ」と言っていた。確かに、おじいさんの家のキッチンは僕たちの家の小さなキッチンの倍以上の広さがあるし、オーブンもすごく大きい。
「それは良かった。私もおまえが一週間もここにいてくれるのは嬉しいよ」
おじいさんの眉毛がいつもの角度にもどって、薬みたいなにおいのする手が僕を撫でる。おじいさんが嬉しいのは僕にとっても嬉しいことだし――楽しいことばかり考えていたらだんだん、本当に僕はここにお泊まりすることを待ち望んでいたんじゃないかと思えてきた。
心配な気持ちも不安な気持ちも小さくなって、僕はその日の夕ごはんを残さず食べた。マーサの作ってくれたシチューは……お母さんとサーシャの作るシチューほどではないけど、美味しかった。僕が寂しがらないようにと、普段は夕方に帰ってしまうベネットさんも一緒にごはんを食べた。食事の後はみんなでバックギャモンで遊んだ。
眠るときは――ちょっとだけ寂しい気持ちを思い出したから、かばんの一番奥に隠したサーシャのエプロンを取り出してぎゅっと抱きしめた。顔を寄せると、今日のお昼に焼いてくれたマフィンのにおいがまだ少しだけ残っている。それはサーシャの作ってくれたもののにおいだけど、サーシャのにおいではない
そういえば前にビビが、僕からはロボットのにおいがするのだと言っていた。いくら鼻をくんくんしても僕にはわからないロボットのにおい――多分それは、サーシャのにおい。それを感じとれないのはすごく悲しいけれど、僕にはわからないだけで本当はちゃんとこのエプロンや僕の体にサーシャのにおいが残っているのだと思うと嬉しくなって、そのうち眠りに落ちた。