次の日から僕は、いつもより一時間くらい早起きをしなければいけなかった。というのも僕とサーシャの暮らすアパートメントと比べておじいさんの家はずっと郊外にあって、学校から遠く離れているからだ。
普段の僕は朝の七時半にサーシャに起こされる。たまには、キッチンから流れてくるスープやパンケーキのいいにおいで、サーシャが部屋に来るよりも前に目が覚めてしまうこともある。それから顔を洗って、着替えて、ご飯を食べて、歯を磨いて、最後に忘れ物がないか鞄の中を確認してからサーシャといっしょに家を出る。
学校までは歩いて十五分くらいの距離だけど、猫を見つけたり蝶々を見つけたりして僕が立ち止まってしまうことがあるから、いつも少しだけ早めに出かけるのだとサーシャは言っていた。
月曜日の朝にベッドにやってきたマーサに起こされたとき、僕は自分がどこにいるのかをすっかり忘れていた。びっくりして「サーシャは?」と聞くと、マーサは起き上がった僕の肩にガウンをかけながら言った。
「あら、まだ起きたばかりでぼんやりしていらっしゃるのね。今週はサーシャがメンテナンスに行っているから、アキヒコ坊ちゃんはおじいさまのおうちにお泊まりですよ」
「……メンテナンス……おじいさん……」
口の中でぼんやり繰り返すうちに、思い出す。僕は次の週末のお休みまでずっとおじいさんの家で寝起きすること――サーシャに会えないこと。泣きたくなるのをぐっとがまんした。
「あら、これは?」
その声につられて顔を上げると、マーサは僕の枕元でくしゃくしゃになった黒いエプロンを見つけて不思議な顔をしている。
「あ、それは……」
顔がかっと熱くなるのがわかった。だって僕はもう八歳で、二年生で、お兄さんなのに、サーシャのエプロンをこっそり持ってきたなんて――もしも学校の友だちに知られたら「アキは子どもっぽい」と笑われてしまうだろうし、ベネットさんはまた難しい顔をしておじいさんとひそひそ話をするかもしれない。
「大人用のエプロン……?」
「あ、あの。それは間違えて持って来ちゃったんだ。サーシャのエプロンを……他の洋服を入れるときに、いっしょに」
嘘をついているのがわかっているから、だんだん声が小さくなる。マーサは少しのあいだ僕の顔をじっと眺めて、それから言った。
「わかりました。でも、くしゃくしゃになってしまったから、きれいに洗っておきましょうかね」
思わず僕はマーサの持っているエプロンに手を伸ばして、ぎゅっと端を握ってしまう。だって、洗ってしまったらせっかくエプロンに残っているサーシャのにおいがなくなってしまう。僕には感じ取れなくたって、絶対に残っているはずの、サーシャの証拠が。
マーサはさっきよりもびっくりしたみたいな顔で僕を見ていた。僕がこのエプロンを持ってきた本当の理由を知られてしまったのかもしれないと思うとまた恥ずかしくなってきた。でもマーサはそれ以上は何も聞かずに「わかりました」と言ってくれた。
サーシャのエプロンをきれいに畳んで枕元に戻すと、マーサは僕の手を握ってドアの方へ連れていく。焼き立てのパンのにおいが部屋の外から漂ってきて、僕のお腹はぎゅっと鳴った。
「じゃあ、あのエプロンはサーシャの検査が終わってアキヒコ様がおうちに帰る直前に洗うことにしましょう。きれいにして持って帰った方がサーシャも喜ぶでしょうから」
「……あと、もうひとつお願いがあるんだけど」
袖口を引っ張るとマーサはしゃがみこんで、僕のひそひそ話に耳を傾けてくれた。僕のお願いは、サーシャのエプロンのことをおじいさんにもベネットさんにも内緒にしてほしいということ。マーサはくすくす笑いながらうなずいた。
焼きたてのパンと目玉焼きとミルクティーの朝ごはんを終えて歯を磨いていると、ベネットさんがやってきた。
「学校までお連れします。これをどうぞ」
「なあに?」
ゴムとプラスティックの中間みたいなものでできた輪っかを受け取りながら僕が首をかしげると、ベネットさんは、それは酔い止め用のリストバンドなのだと言った。手首につけると、ごはんを食べた後すぐに車に乗っても気持ち悪くならないらしい。
リストバンドの効果があったのかはわからない。というのも、昨日は不安でなかなか眠れなくて、しかも今朝は普段より一時間も早く起きたせいで僕は車に乗るとすぐに眠ってしまったから。
* * *
「どうして今日は車で来たの?」
「アキのおうち、車を持ってたの?」
「どうしてサーシャじゃなくて、おじさんといっしょだったの?」
車で学校まで送ってもらう子は多いけど、僕が乗っていた大きくて黒くてぴかぴかの車はすごく目立った。しかも、僕はこれまで一度も車で登校したことがなかったから、クラスの友だちはみんなびっくりした顔で近づいてきた。
昨日からずっと、サーシャと離れて過ごすことも、家と違う場所で眠らないといけないことも不安でしかたなかったけど、友だちに囲まれるとちょっとだけスターになったみたいで嫌な気はしない。
「サーシャは〈法定点検〉に行かないといけなくて、だから、そのあいだ僕はおじいさんの家にいるんだ。あの車はおじいさんので、一緒に乗っていたのはおじいさんの弁護士のベネットさん」
鼻高く僕はそう言った。一時間もかけて遠くから学校に通っている子は他にいないし、あんなにつやつやした車に乗ってくる子も他にいない。そう考えると僕は特別で、まわりのみんなよりも大人っぽいんじゃないかという気がしてくる。
「へえ、一週間もおうちじゃないところで眠って、寂しくないの?」
「僕だって、夏休みには別の国に住んでいるおじいさんのところに二週間も泊まったよ」
「でもそれはお兄さんとお姉さんもいっしょだったじゃない。アキはひとりでおじいさんのところにいるんでしょう?」
クラスメートは口々にいろんなことを言った。みんな親戚の家やよその家に泊まったことはあっても、たいていはお父さんやお母さんやきょうだいがいっしょだったみたいだ。数少ないひとりお泊まり経験者も、恥ずかしそうに「夜になると寂しくてママに電話した」「お布団の中で泣いた」などと告白した。
僕は完全に有頂天になった。だって僕はサーシャに電話しなかったし、ベッドに入ってから泣いたりもしなかった――もしもメンテナンスの場所にいるサーシャがお話できるのならば電話していたかもしれないし、泣きたいくらい不安な気持ちでエプロンを抱きしめてはいたのだけど、それは絶対に秘密だ。
でも、僕のご機嫌は長くは続かなかった。
お昼ごはんの後で、友だちのベンが僕の袖を引っ張った。
「ねえ、アキ」
「どうしたの? ベン」
「さっきの話。サーシャの〈法定点検〉のこと」
ナーサリーの頃からの友だちのベンの家にも、お手伝いロボットがいる。人型で、確か名前はアニー。もちろん僕とちがってお父さんやお母さんもいるのだけれど、ベンと妹とまだ赤ちゃんの弟の三人の面倒をみるのは大変だから、アニーを「長期レンタル」していると聞いた。
「うちのアニーも、先月ちょうど〈法定点検〉だったんだけど」
いつも明るくてにぎやかなベンなのになんだか元気がないし、ひそひそ話みたいに小さな声だから、なんだか心配になってくる。
「どうしたの? ベンは、アニーがいなくてもパパもママもいるから大丈夫だったんじゃない?」
「うん。僕はなんてことなかったんだけど〈法定点検〉の後がたいへんでさ……今もパパやママはメンテナンスの会社の人と『ほしょう』の話とかで、毎日電話してるんだ」
「ほしょう?」
聞き返しながらも、僕のお腹のあたりから不安な気持ちがむくむくと沸いてくる。〈法定点検〉の後がたいへんというのはどういうことなんだろう。サーシャもおじいさんもベネットさんも、そんなこと言っていなかった。〈法定点検〉を受けないと違法のロボットになってビビみたいに連れて行かれるかもしれないから絶対に点検を断ることはできないと言われて、点検さえ受ければ全部うまくいくんだと思っていた。
どきどきしている僕にベンは言った。
「アニーはさ、僕たちのことをぜんぶ忘れちゃったんだ」