僕と機械仕掛けの不在(4)

 午後の授業はほとんど耳に入らなかった。ベンが言っていたことがずっと頭の中でぐるぐる回って、そのうち体の中でも怖い気持ちや不安な気持ちが渦巻いて、最後は目の前までくらくらしてきた。

「どうしたの? アキくん、具合が悪いの?」

 僕の様子がおかしいことに気づいた先生が心配そうに机までやって来て、早退するのならおうちの人を呼びましょうか? と聞いた。大丈夫、と答えたのは他の子たちに「強がっていただけで、やっぱりサーシャがいなくて寂しいんだ」と思われるのが嫌だったからだ。

 ずっと泣きそうになるのをがまんしていたけれど、授業が終わって、迎えにきたベネットさんといっしょに車に乗り込んだら気持ちを抑えることはできなくなった。

「ベネットさん、お願い! サーシャを迎えに行って! 今すぐに!」

 そう言ってわっと泣き出した僕を見てベネットさんは目を丸くした。そういえば僕は、おじいさんやベネットさんの前では大声を出して泣いたり、わがままを言って暴れたりすることはこれまで一度もなかった。だって、そういうのはサーシャの前だけだと決めていたから。

「……どうしたんですか、アキヒコ様」

 ベネットさんはびっくりした顔のままで固まっているし、多分同じくらい驚いている運転手さんは車のエンジンをかける手を止めた。けれど、後ろからやって来た別の車が邪魔だと言わんばかりにクラクションを鳴らしたから、あわてたように車を動かしはじめた。

「やめて! 車をおじいさんの家にやらないで。すぐに〈法定点検〉のところまで連れて行って!」

「……ベネットさん、どうしましょう」

 うろたえたように運転手が言うと、ベネットさんはぴしゃりと返した。

「いいから出しなさい。アキヒコ様の話は走りながら聞くから」

「やだって、止めてよ!」

 わあわあと泣いているうちにどんどん怖い気持ちが大きくなって、僕は隣に座っているベネットさんのスーツをぎゅっと握って強く引っ張った。

 もう何百回も乗っている車で、もう何百回も会っている運転手とベネットさん。なのに急にここは見知らぬ場所で、僕にいじわるをしようとする怖い人たちに囲まれているような気がしてくる。

 ベネットさんの声はまるで最初に僕のアパートメントにやって来て、サーシャのことを馬鹿にしたときみたいに冷たく聞こえた。

 いつもは僕の言うことをなんでもきいてくれるのに。車に酔ったらすぐに止めてくれるし、途中に行きたいところがあると言ったら、ちょっと嫌な顔をすることはあってもたいていは希望を叶えてくれた。わからずやのサーシャよりよっぽど僕の言葉に耳を傾けてくれていたはずのベネットさんが、今は〈法定点検〉のところに連れて行って欲しいという必死の願いを無視している。

「なんで車を停めてくれないんだよ、〈法定点検〉はこっちじゃないって、僕知ってるんだから!」

 スーツを引っ張っても効果がないので、今度はやみくもに腕を振り回す。ぎゅっと握った拳がベネットさんの顎に当たってごつんという音が聞こえた。次の瞬間、僕の両手首はベネットさんの両手につかまれて、それ以上振り回すことができないようにされてしまった。

「アキヒコ様!」

 それはこれまで聞いたことのない声だった。つまり――皮肉でも、意地悪でも、呆れているのでもない――怒っているときの声。

 びくりとして動きを止めた僕の目を、ベネットさんの薄青い目が眼鏡のガラス越しにじっと見つめる。

「アキヒコ様、話は伺うと言っているでしょう。車を動かしたのは、あそこに停めたままだとお迎えに来た他の父兄の邪魔になるからです。人の話も聞かずにわあわあ泣いて、しかも暴れるなんてみっともない」

「だ、だって……」

「まったく、朝は普通にしていたじゃないですか。こんな姿を見たらサーシャが何と言うか」

 あまり怒らないベネットさんから叱られたショックで一瞬引っ込んでいた涙が「サーシャ」の名前に再びあふれ出す。差し出された白いハンカチで顔を拭いながら、僕はベネットさんに理由を話そうとした。

「ベンが……、ベンのところのアニーが〈法定点検〉が失敗して、壊れちゃったんだって……」

* * *

 結局、車はまっすぐおじいさんの家に向かって走りつづけた。

 ベネットさんは確かに話を聞いてはくれたけど、「すぐにサーシャを取り戻しに行かなきゃ」という僕の言葉にはうなずかず、車を引き返す指示も出さなかった。

 悲しい気持ちと腹立たしい気持ちと――何より大きいのは不安。僕はただいまも言わずに家に入り、おじいさんのいるリビングには行ったものの黙ってソファに座ってマーサの出してくれたおやつにも手をつけなかった。

「で、そのアニーは、家族のことを忘れてしまったんだと?」

 おじいさんは僕のほうに煙草のにおいが流れないように、反対側に顔を向けてパイプの煙をそっと吐き出した。

「うん。メンテナンスのときに失敗して、メモリーが消えてしまったんだって」

「だが、普通は修理や点検の前にはバックアップを取るものだろうに」

 ベネットさんが横から口を挟む。メモリーというのが脳味噌みたいな、ものごとを覚えておくためのものだというのはベンに教えてもらったけれど、バックアップが何なのかは知らない。

「ねえ、バックアップって何」

「メモリーが壊れたときに備えてコピーしておいたものです。万が一の事故でロボットがそれまでのことを忘れてしまっても、バックアップを使えば元どおりになるんです」

「……ふうん?」

 疑わしい気持ちになってしまうのは、車の中で叱られたことと、頼みを聞いてもらえなかったことを根に持っているからだ。それにメモリーが人間の脳みそみたいなものであるならば、そう簡単にコピーなんて作れるんだろうか。

 サーシャは〈内燃機関〉で動いているから、僕とは違ってごはんを食べなくても死なないし、動き続けることができる。でもビビは、サーシャも僕も同じように体の中に電気があって、その命令で動くのだと言った。

 僕とサーシャは同じものなのか、それとも全然違うものなのか、話を聞くほどにわからなくなって、混乱してしまう。

「アキヒコはベネットの言うことを疑っているのか?」

「だって、アニーは元どおりになってないみたいだよ。最初にお家に来たときみたいにもう一度ベンに挨拶して、妹や弟のお世話の仕方も全部覚えなおしているんだって」

 するとベネットさんは前のめりになって、僕やおじいさんに言った。

「その件ですが、気になったので電話をかけてきいてみました」

 家に着いてからベネットさんがこの部屋に来るまで時間があったけれど、それはベンのママに電話していたからなのだという。そういえばサーシャは「念のために」と言って僕の学校の連絡網をベネットさんに渡していたっけ。

 アニーの場合はものすごく運の悪い事故というか、ミスというか、とにかく普通ならありえないくらいの確率で、「バックアップをとるのに失敗した上に、本体のメモリーが破損してしまった」というのが、ベンのママの話だった。メンテナンスの会社もできるだけのことをしたけれど、復旧作業はうまくいかなかったのだと。

「アキヒコ様、そのメンテナンス会社でもこのような事故は三年に一度あるかないかの話だということですよ。しかもサーシャのメンテナンスを頼んだのはアニーの点検をしたところより評価が高い業者です。まず同じような事故は起こりません」

「どうして絶対って言えるの? 三年に一回でも十年に一回でも、それにサーシャが当たらないって証拠、あるなら見せてよ」

「絶対とか、証拠とか、無茶を言わないでください」

 僕がにらみつけると、ベネットさんは困ったように眉をひそめて、横目でおじいさんを見た。

 おじいさんは、難しいことを説明するときにいつもそうするように、僕をすぐそばまで引き寄せてから髪の毛をぽんぽんと軽く叩いた。

「アキヒコ、人のすることに百パーセントはない。だからといって、普通はほとんど起こらないことを心配していれば、身動きをとれなくなってしまう。可能性の話をするなら、おまえは明日学校に行く途中に交通事故にあうかもしれないし、この家で眠っているあいだに火事が起きるかもしれない」

「……え……っ」

 急にそんなことを言われたらもっと怖くなってしまう。学校に行けば交通事故、ここにいれば火事、だったら家に帰りたくなるけど――サーシャのいない家にひとりでいるのにおばけや泥棒が出たらどうしたらいいだろう。

 僕の顔が青くなったのを見ておじいさんは笑いながら髪を撫でる。

「怖がらせるために言っているわけではないんだよ。交通事故も火事も、確率としてはとても低いし、注意をすることでもっと可能性を減らすことはできる。ただ、世の中にはありとあらゆる可能性があるから、私たちが生活をするにはそれがどのくらい大きいかを秤にかける必要があるんだ」

「はかりに……?」

「ああ、その上で十分に『大丈夫』と考えられることは信用するしかない。もちろん間違いや失敗を防ぐ努力はしながら。それに点検をすることで、今後大きな故障につながるかもしれない小さな不具合を見つけられるメリットもあるんだ」

 僕は何も言えなくなった。サーシャが僕のことを忘れてしまったら、と考えるとどうしようもなく怖い。でも、サーシャが〈法定点検〉をしなかったせいで後で故障してしまうことや、〈違法のロボット〉になって連れて行かれてしまうことはもっと嫌だ。

「大丈夫だ、作業にミスがないよう改めて業者に釘を刺しておく。わたしやベネットや――何よりサーシャを信じろ」

 おじいさんが目配せするとベネットさんがそっと部屋を出ていく。きっとメンテナンスに電話をかけに言ったのだろう。

「……信じる」

 僕は自分に言い聞かせるみたいにそうつぶやいた。泣いても喚いてもどうしようもないことがあるのだと、僕はもうずっと前から知っている。