シャワーを浴びて、寝間着に着替えて歯を磨いてから、マーサが僕を寝室に連れて行ってくれた。
「マーサはいつも、こんな遅い時間までここにいるの?」
時計の針はもう夜の九時近い。早起きして、車にも乗って、怖い気持ちにもなって、僕にとって今日はすごくすごく長く感じられた。こんなに長いのだから実は三日くらい一気に時間が進んでいて、サーシャが戻ってくる日がうんと近づいていたらいいのに。
「普段はお夕食の準備だけ済ませたら帰らせていただくんですよ。ラザフォード様だけでしたら朝食の時間ももっと遅いですから、お屋敷に来るのもゆっくりです。アキヒコ様のいる今週だけ早起きなんです」
「でも、マーサが長くここにいると、マーサの子どもはさびしいよね」
シーツの上に横たわると、マーサはめくりあげた上掛けを僕の体の上に戻してぽんぽんと上から胸の辺りを優しく叩いてくれた。枕元にはきれいに畳まれたサーシャのエプロンが置いてあった。約束どおり、洗濯はされていない。
「私の子どもはもう一緒には暮らしていないので、大丈夫ですよ。上の子は大陸で仕事をしていますし、下の子は中部で大学の寮に入っています」
「えっ……別々に? お母さんと子どもなのに?」
部屋の灯りは薄暗いのに、僕が驚いた顔をしたのはわかってしまったのだろう。そして僕も、ぼんやりとマーサの笑顔を見ることができた。
「そうですよ。お母さんと子どもでも大人になれば離れて暮らすこともあるんです。もちろんずっと同じ家に住むこともありますが、それこそ学校とか仕事とか結婚とか、いろんな事情がありますからね」
「ふうん」
そういえばお母さんも、ずっとおじいさんとは離れて暮らしていた。それどころか僕には「他には親戚も家族もいない」と言って、一度もおじいさんと会わせようともしなかった。
「いつもと違う環境で疲れたでしょう? ゆっくりお休みになってください。明日の朝はパンケーキを焼きましょうね」
「……シャンテリークリームとイチゴも」
「普段はそうやって食べることが多いんですか?」
「うん」
じゃあいつもと同じようにしましょうね、と言うとマーサは枕元のランプを豆電球にして、そっと部屋を出て行った。
僕は嘘をついた。学校のある朝にクリームの載ったパンケーキなんて、サーシャは作ってくれない。彼は子どもの朝ごはんにケーキや甘いものはよくないと信じているから、よっぽど特別のとき以外はせいぜいトーストにジャムやマーマレードを塗ってくれるくらい。前の日のおやつのケーキが残っていても朝は食べさせてくれないのだ。
マーサのごはんはすごく美味しいけど、僕はもうサーシャの作るものが恋しくなっていて、だからちょっとでも明日の朝を楽しみにしたくて普段食べられないものをお願いした。朝からふわふわのクリームと真っ赤なイチゴだなんて夢みたいなのに、それでもまだ胸の中には石が入っているように重かった。
すごく長い一日で疲れ果てているはずなのに、なかなか眠くならない。
あの後、ベネットさんはメンテナンスに電話をかけて、サーシャの点検が順調に進んでいることを確認したと言っていた。
「念には念を入れて、バックアップをさらにコピーして、絶対に安全な金庫に保管するように頼みました。こんな心配性な顧客は初めてだと多少嫌味を言われましたが、これでアキヒコ様のご懸念のような自体はまず起きないでしょう」
昨日は特別に一緒に晩ごはんを食べたベネットさんだったけど、今日は家族が待っているからと、あっさり帰ってしまった。もしかしたらちょっとは僕に腹を立てているのかもしれない。
「大丈夫。サーシャがいて、サーシャの『バックアップ』があって、『バックアップのコピー』もあるんだから。サーシャはアニーがベンのことを忘れたみたいに、僕のことを忘れたりはしない……」
おまじないみたいにつぶやいていると、よくわからなくなってくる。
僕はひとりだけで、僕の考えていることはこの頭のなかだけにある。なのにサーシャは、もし「事故」があっても「バックアップ」や「バックアップのコピー」があれば元に戻すことができるなんて。
それは、今はサーシャの心が三つもあるということ?
本物の心はどれ? もしも、絶対に大丈夫だと信じてはいるけれど、もしも「事故」が起きて「バックアップ」で元どおりにしたとして、それは本当に前と完全に同じサーシャなの?
あまりに難しくて頭が痛くなるし、どんどん眠れなくなる。そっと時計に目をやると、針はぐるんと回ってもう十時が近い。こんな時間まで起きていることを知ったらきっとサーシャはすごく怒るだろう。
サーシャは日曜には戻ってくる。そうしたらまた前と同じようにずっと一緒にいられる。ずっと。いや、違う――前にサーシャは言っていた「あなたが成人するまで」と。成人というのは大人になるということで、大人になるというのは僕のママやマーサの子どもたちみたいに、育ててくれた人と別々に暮らすのが平気になるということ。
――ぞっと背中が冷たくなった。
友達が「有名な〈よげんしゃ〉が今年の九月二十日に世界が〈めつぼう〉するって言ってたらしい」と言い出したことがあった。それはお昼休みのことで、びっくりして女の子たちは泣いてしまった。僕も本当は怖かったけど、他の男の子たちが笑い飛ばしているからがまんして平気なふりをした。あれは確か最終的には、騒ぎを聞きつけた先生がやってきて「そんな噂話で人を脅かすんじゃありません!」と言い出しっぺの子を叱ったんだった。
でも「世界が終わる」と聞かされたあのときより、僕は今の方がずっとさびしくて恐ろしい。夜中だから、ひとりだから、それに――サーシャがここにいないから。
僕はそっと上掛けをめくってベッドから降りた。裸足の足の裏に冷たい床板が触れる。足を左右にやみくもに動かすとすぐにスリッパが見つかったから足を入れた。ベッドの近くにある椅子に掛けてあるガウンをとって羽織ると、ドアに向かった。
おじいさんの家はすごく古いから、廊下を歩くとぎしぎしと音がする。夜中だからか、昼間よりもずっと足音は大きく聞こえた。
僕がおやすみを言いに行ったとき、おじいさんも部屋に戻ろうとするところだった。僕が遊びに来ているときはリビングルームの肘掛け椅子が定位置だけど、おじいさんには他に仕事をするための「書斎」と、眠るときの「寝室」がある。
もしも扉が閉じていたら、すでにおじいさんが眠っていたら、起きていたとしても、こんな時間に部屋を訪ねたことを叱られたら。いろいろな不安はあったけれど、おじいさんの部屋――これは確か、書斎の方――のドアの隙間からはオレンジ色の明かりが漏れていた。
小さくノックすると、少し間があった。
聞こえなかったのかもしれないから、もう一度。少し強く。すると椅子から立ち上がる気配の後でおじいさんがドアを開けに出てきた。おじいさんの動きはゆっくりしているから、とても長い時間待った。
「アキヒコ、どうした?」
おじいさんは驚いた顔をして、部屋の奥を振り返った。どうやら時間を確かめたらしい。僕は怒られることを覚悟してぎゅっと身をすくめた。
「ご、ごめんなさい。眠れなくて」
でも、覚悟したような叱責の言葉も冷たい視線も降っては来なかった。それどころかおじいさんは僕を部屋に招き入れてくれた。壁いっぱいの棚にはびっしりと本が並んで、大きな机の上にはたくさんのファイルや紙が散らばっている。きっとここは、おじいさんが仕事をするための部屋。中に入るのははじめてだった。
僕をソファに座らせると、おじいさんは足元を指さした。
「アキヒコ、スリッパが逆だ」
「あ……」
なんだか歩いていて気持ち悪いと思ったら、暗闇のなか当てずっぽうで足を入れたから僕はスリッパを逆に履いていたのだ。恥ずかしい気持ちで左右を履き替えた。
「普段と違う環境だから眠れないんだな。ええと、マーサがいればお茶か……ホットミルクでも頼んだんだが」
マーサが帰ってしまうと、おじいさんはここにひとりになる。もし急に具合が悪くなったらどうするのかと前にきいたら、ずっとつけている時計に特別な機能がついていて、おじいさんがボタンを押したり、脈拍や血圧に異常があったりすればすぐに警備会社の人がやってくるのだと言っていた。でもきっと、警備会社の人はお茶やミルクのお世話はしてくれない。それに僕がここにきた目的は、喉がかわいたからではなかった。
「ううん、大丈夫。それよりあの、僕、おじいさんに本を貸して欲しいんだ」
おじいさんは驚いた顔をして、ゆっくりと首を動かした。背中側にある一面の本棚を見渡して「本?」と言った。
「アキヒコの本は部屋にあるだろう」
確かに、これまでに買ってもらった絵本や図鑑や物語はすべて、僕の寝室に置いてある。でも僕が今欲しいのは、別のものだった。
「違う。辞書。僕の辞書、学校に置いてあるから。おじいさんが辞書を持っているなら貸して欲しいんだ」
「辞書か……だが私の辞書は大人用だからアキヒコには難しすぎるし、何より明日も早いのだから、こんな時間から。もしかして宿題が終わっていないのか?」
僕はふるふると首を振った。
何に使うのか、と聞かれたらどうしようか。正直に答えたらおじいさんは困った顔をするかもしれない。まだ僕がサーシャにこだわっていると、ベネットさんみたいに「依存」だと眉をひそめるかもしれない。でも、嘘をついても、この色の薄い瞳には全部見抜かれてしまいそうな気がする。
「む、難しい言葉が書いてあるものを、読みたくて。僕、字はすごく上手に読めるんだ。学校の読み方の教科書は全部、意味を調べなくたって大丈夫。でも、もっと難しいのを……」
「この時間に?」
「ね、眠ろうとしたんだけど。暗くしても、目をぎゅっと閉じても、起きちゃうんだ」
ふむ、とおじいさんはうなずいて、少しのあいだ答えを考えているようだった。サーシャやベネットさんと違っておじいさんは動くのも話すのもゆっくりだ。でも不思議と僕はその間が嫌いではない。
「目が冴えることくらい、誰にだってあるからな」
おじいさんはそう言って立ち上がると、本棚の方に歩いて言った。そして棚の前で両腕を組んでたっぷり悩んでから、一番端の扉に手をかけた。
「ほら、これでいいか?」
やがて差し出されたのは、古びた分厚い本。表紙には「子どものための字引き」と書いてある。
「子どもの辞書、あったんだ!」
嬉しくて飛び上がる僕に、おじいさんは言った。
「エマが幼い頃に使っていたものが、捨てずに残っていた。新しい言葉が載っていないから不便だろうから、明日にでも新しいものを準備させよう」
「ありがとう!」
それからおじいさんは内緒話のように言った。
「明日は、熱が出たと言って学校は休むんだな。寝不足で出かけても授業に身が入らないだろう。もちろんサーシャやベネットは私が甘いと怒るだろうが、程度を知った上であればずる休みの仕方を覚えるのも大切なことだ。……ところで、これから読み物をするならば読書灯はちゃんとつけておくんだぞ。暗い場所で本を読むと目が悪くなる」
「うん、おやすみなさい」
僕はこれまでよりずっと、ずっとおじいさんのことが好きになった。
帰りの廊下はぎしぎしという音も気にならなかったし、不思議とずっと明るく思えた。寝室に戻ると僕は枕元の豆電球の紐を何度か引いて、明かりを大きくした。それから、家から持ってきた荷物の入った鞄に手をつっこんで、その中から分厚いファイルを取り出した。ずっと前にサーシャに渡されたものだ。
「今のあなたには内容が難しいと思いますが、契約当事者ですから複写をお渡しします。……原本はベネット氏が持っていますので、気になることがあれば彼に聞いてください」
ファイルの表紙を持ち上げると、書類の表紙の大きな文字が目に入る。
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