僕と機械仕掛けと思い出(5)

 サーシャは怖い顔をしてアパートメントの前に立っていた。

 アンドロイドは普通の人間ほどには表情の変化が大きくないけれど、長く一緒に暮らしている僕は眉や目、唇のちょっとした動きだけでサーシャの気持ちが手に取るようにわかる。

「ずいぶんあわてて走ってきたようですが、どこへ行っていたんですか」

 そう言うサーシャの髪も少しだけ乱れている。ずっとここで待っていたわけではなく、きっと僕を探し回っていたんだろう。

「……ちょっと公園まで」

「遅い時間にひとりで出歩くなっていつも言っているでしょう」

「でも、頭を冷やして来いって言ったのはサーシャだ」

 出かけた理由の半分は、頭を冷やすため。残りの半分は、サーシャに僕がすごく悲しくて怒っていることを知って欲しかったからだ。そしてちょっとくらいは心配して、悪かったと思って欲しかった。

「まったく、誰が物理的に冷やせなんて言いました? すっかり冷たくなってますよ」

 サーシャが手を伸ばし、ぼくの髪に触れる。彼はぼくの頭が冷たいというが、ぼくにはサーシャの手の方がひんやり冷たく感じられた。

 ともかく、僕の作戦は半分以上は成功したらしい。さっきの態度を反省しているかはわからないが、少なくともサーシャは僕を心配していた。そして僕はといえば――不思議なおじいさんの印象があまりに強すぎたせいか、怒りの感情はすっかり消え去っていた。

「物理的に冷やすなとも言われなかった。それに、部屋の中にいるよりずっと効果的だったみたいだよ」

 はあ、とため息を吐いてからサーシャは呆れたように表情を崩す。

「まったく、へ理屈ばかり上手くなって。さあ、家に戻りましょう。すぐにラザニアを焼きますよ」

 そう言われて視線を落とすと、彼の手にはチーズの包みが入ったビニール袋がぶら下がっていた。忘れかけていた空腹感が急に蘇り、お腹がぎゅうっと低い音を立てる。

「ねえ、何分かかる? ぼく待ちきれないよ」

「オーブンは予熱してあるから、二十分で食事です。部屋に入ったらまず、爪の中までしっかり手を洗うんですよ」

「わかってるって」

 ぼくはサーシャの前に飛び出すと、跳ねるように階段を上りはじめる。ちょうど近所のパトロールに出かけるところなのか、ブラウンさんの飼い猫のポピーが隣をすり抜けていった。

 

 ふんぱつして三種類もチーズを使ったというラザニアはすごく美味しかったし、お腹がぺこぺこに空いていた僕はデザートをおかわりした上に完全に平らげた。お皿まで舐めてしまいそうで品が悪いとぶつくさ言いつつ、サーシャは嬉しそうに見えた。

 でも、空腹感が消えると再びもやもやとした気持ちが浮かんでくる。おじいさんが勧める全寮制学校のこと。いくら興味がないと言っても女の子の話ばかりしてくるベンのこと。

 何もかも、めんどくさい。

 少し前までは、ぼくの世界はもっと単純で簡単だったはずだ。不満があるとすれば、サーシャやベネットさんの口うるさいお説教。それに――ぼくが成人したときにやって来るという「サーシャの長期レンタル終了」のこと。でも、お説教は聞き流せば終わることだし、レンタル期限がおしまいになるのはずうっと先のことだと自分に言い聞かせれば、とりあえず忘れることができた。

 なのに、十一歳になってから急に周囲がざわざわと慌ただしく、ややこしくなってきた。まるで時間の密度がずっと濃くて、流れるスピードがずっと速くなったみたいに。

「アキ、ミントティーを入れましょうか? 消化を助けて胃がすっきりします」

 ぼくがまた浮かない顔をしているのを、サーシャは食べ過ぎで気分が悪いせいだと思ったらしい。

「うん、ちょうだい」

 また険悪になるのが嫌だから、今日はもうパブリックスクールの話はしないと決めていた。ベンとシルビアの話も、本当はちょっと聞いて欲しかったけれど、「男の約束」をしてしまった以上、相手がサーシャであろうと話すことはできない。

 そしてもうひとつ気にかかっていること。

 公園にいた、おじいさん。

 待ち合わせ相手である「恋人」は、約束どおりあの公園にやって来ただろうか。めいっぱいお洒落をした女性と薔薇の花を眺めて、腕でも組んで一緒に公園を後にしただろうか。だったら良いのだけど、ぼくの頭からは、おじいさんの足元に散らばっていた無数のタバコの吸殻の映像が離れない。

 もしも、今もおじいさんがあそこにいるのだとしたら? 誰もいない真っ暗な公園で、ベンチにひとりきり座ってタバコの小山だけを積み重ねているのだとすれば?

「……アキ? どうしたんですか外なんか眺めて」

 サーシャの声にはっとする。ぼくはいつの間にか窓の外を眺めていたのだ。ここからあの公園が見えるはずはないのに。

 どうしよう、サーシャに相談してみようか。あのおじいさんがまだベンチに座ったままであるかを確かめに、一緒に公園に行ってくれるよう頼んでみようか。考えて、やめておくことにする。勝手にひとりで外に出ただけで渋い顔をしたサーシャだ、ぼくが見知らぬ大人と話をしたと知ったら怒り出してしまうかもしれない。

 きっと大丈夫。おじいさんはきっともう家に帰ってしまっただろう。無理やりのようにそんなことを考えながら、ぼくはサーシャを振り返った。

「いや、外で音がしたから、ポピーが窓で遊んでるんじゃないかと思って」

 隣人の猫の名前を口にするとサーシャがぎゅっと眉根を寄せる。

「また外に出て猫を助けようなんて思わないでくださいよ。あなたはずいぶん大きくなってしまったから、高いところから落ちたらもう受け止めきれないかもしれません」

 ミントティーのカップを乗せたトレイを手にしたサーシャ。洗い物をしたときに袖をまくり上げたままになっているせいで、左腕の傷跡が少しだけ見えていた。

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