サーシャは怖い顔をしてアパートメントの前に立っていた。
アンドロイドは普通、人間ほどには表情の変化が大きくない。けれど長く一緒に暮らしている僕には、眉や目、唇のちょっとした動きだけでサーシャの気持ちが手に取るようにわかるのだ。
「ずいぶんあわてて走ってきたようですが、どこへ行っていたんですか」
怒鳴りつけてくるわけではない。静かな口調には怒りがにじんでいた。サーシャの前髪は少しだけ乱れているから、ずっとここで待っていたわけではなく、僕を探し回っていたんだろう。
「……ちょっと公園まで」
「遅い時間にひとりで出歩くなっていつも言っているでしょう」
叱責の言葉に、家を飛び出した理由がはっとよみがえる。
「でも、頭を冷やせって言ったのはサーシャだ!」
出かけた理由の半分は、頭を冷やすため。残りの半分は、僕がすごく悲しくて怒っていることをサーシャに知って欲しかったからだ。ちょっとくらいは心配して、悪かったと思ってくれれれば、それでよかった。
僕の目が少しだけ潤んでいるのを見透かしたのか、サーシャが手を伸ばして髪に触れてくる。
「まったく、誰が物理的に冷やせなんて言いました? 髪の先まで冷たくなってますよ」
彼は僕が冷たいというが、僕にはサーシャの手の方がひんやりしているように思えた。
ともかく、僕の作戦は半分以上は成功したようだった。さっきの態度を反省しているかはわからないが、少なくともサーシャは僕を心配した。そして僕はといえば――公園で出会ったおじいさんの印象があまりに強すぎたせいで、怒りの感情は消え去っていた。
「物理的に冷やすなとも言われなかった。それに、部屋の中にいるよりはずっと効果的だったみたい」
はあ、とため息を吐いてからサーシャは呆れたように表情を崩す。
「まったく、へ理屈ばかり上手くなって。さあ、部屋に戻りましょう。すぐにラザニアを焼きますよ」
そう言われて視線を落とすと、彼の手にはチーズの包みが入ったビニール袋がぶら下がっていた。忘れかけていた空腹感が急に蘇り、お腹がぎゅうっと低い音を立てる。
「ねえ、何分かかる? 待ちきれないよ」
「オーブンは予熱してあるから、あと二十分で食事です。部屋に入ったらまず、爪の中までしっかり手を洗うんですよ」
「わかってるって」
ぼくはサーシャの前に飛び出すと、跳ねるように階段を上りはじめる。ちょうど近所のパトロールに出かけるところなのか、ブラウンさんの飼い猫のポピーが隣をすり抜けていった。
ふんぱつして三種類のチーズを使ったというラザニアはすごく美味しかったし、お腹がぺこぺこに空いていた僕はデザートのおかわりをした。お皿まで舐めてしまいそうで品が悪いとぶつくさ言いつつ、サーシャは嬉しそうに見えた。
いったん空腹感が消えると、再びもやもやとした気持ちが浮かんでくる。
おじいさんが勧める全寮制学校のこと。いくら興味がないと言っても女の子の話ばかりしてくるベンのこと。何もかも、めんどくさい。
少し前までは、ぼくの世界はもっと単純で簡単だった。不満があるとすれば、サーシャやベネットさんの口うるさいお説教。それに――ぼくが成人すると同時に訪れるという「サーシャの長期レンタル終了」のこと。でも、お説教は聞き流せば終わることだし、レンタル期限がおしまいになるのはずうっと先のことだと自分に言い聞かせれば、とりあえず忘れることができた。
なのに、十一歳になってから急に周囲がざわざわと慌ただしく、ややこしくなってきた。まるで時間がずっと濃厚で、流れるスピードもずっと速くなったみたいに。
「アキ、ミントティーを入れましょうか? 消化を助けてくれるから、胃がすっきりしますよ」
ぼくがまた浮かない顔をしているのを、サーシャは食べ過ぎで気分が悪いからだと思ったらしい。
「うん、ちょうだい」
また険悪になるのが嫌だから、今日はもうパブリックスクールの話はしないと決めていた。ベンとシルビアの話も、本当はちょっと聞いて欲しかったけれど、「男の約束」をしてしまった以上、相手がサーシャであろうと話すことはできない。
そしてもうひとつ気にかかっていること。
公園にいた、おじいさん。
待ち合わせ相手である「恋人」は、約束どおりあの公園にやって来ただろうか。めいっぱいお洒落をした女の人いっしょにバラの花を眺めて、腕でも組んで公園を後にしただろうか。だったら良いのだけど、ぼくの頭からは、足元に散らばっていた無数のタバコの吸殻の映像が離れない。
もしも、今もおじいさんがあそこにいるのだとしたら? 誰もいない真っ暗な公園で、ベンチにひとりきり座ってタバコの小山を高くし続けているのだとすれば?
「……アキ? どうしたんですか、外なんて見て」
サーシャの声にはっとする。ぼくはいつの間にか窓の外を眺めていたのだ。ここからあの公園が見えるはずはないのに。
どうしよう、サーシャに相談してみようか。あのおじいさんがまだベンチに座ったままであるかを確かめに、一緒に公園に行ってくれるよう頼んでみようか。考えて、やめておくことにする。勝手にひとりで外に出ただけで渋い顔をしたサーシャだ、ぼくが見知らぬ大人と話をしたと知ったら怒り出すかもしれない。
きっと大丈夫。おじいさんはきっともう家に帰ってしまっただろう。無理やり自分を納得させながら、ぼくはサーシャを振り返った。
「いや、外で音がしたから、ポピーが遊んでるんじゃないかと思って」
隣人の猫の名前を口にするとサーシャがぎゅっと眉根を寄せる。
「また外に出て猫を助けようなんて思わないでくださいよ。あなたはずいぶん大きくなってしまったし、高いところから落ちたら今度は受け止めきれないかもしれません」
ミントティーのカップを乗せたトレイを手にしたサーシャ。洗い物をするときに袖をまくり上げてそのままになっているせいで、左腕の傷跡がシャツからのぞいていた。